四十一.


 安西が来てからこの数ヶ月、衛明館が実に騒々しくなった。
 班長として部下にいた時の彼も大概やりたい放題だったが、隊長になればなったで職権乱用とも取れる行為の数々。あまつさえ面倒見の良い兄貴性分で若い隊士たちともすんなり馴染み、今や我が物顔で組織を牛耳っている。実に、実に騒々しい。

「どうしたんだい、皓司。さっきから嬉しそうに安西さんばかり見てるけど」

 隣で大福を食べている隆が顔の前に手を翳してきた。

「そろそろ老眼ですか。真逆の事を考えておりましたが」
「安西さんが絡むと素直じゃないよねえ。でもよかったよ、ああして他所の隊士の面倒も見てくれるし、俺は安西さんが来てくれて嬉しいなあ」
「殿下は楽ができるからでしょう。たまにはご自分の隊の鍛錬に参加されてはどうです」

 うちは基本自主鍛錬だから、と隆は素知らぬ顔で目を細める。
 我躯斬龍では深慈郎と冴希の強化特訓を終えた安西が氷鷺隊と虎卍隊の隊士に稽古を所望され、連戦で手合わせをしていた。

「斗上さん、体術の稽古はいつからやって頂けるんですか」

 外回りから帰ってきた巴が我躯斬龍の賑わいに気づいて足を止め、隊長の暴れっぷりを少し羨ましそうな目で見つめる。

「神田も片付きましたし、我躯斬龍が空いたら今日から致しましょうか」
「お願いします」

 巴は自分を鍛える事には貪欲だ。一人でできる鍛錬はやり尽くしたと言ってもいい。体術だけは生身を相手にしなければ出来ないが、今まで他人にものを頼むという行為ができずにいた。昨年の一件でようやく心を開いてくれたかと思うと親心のような嬉しさが込み上げてくる。

「安西さんは如何ですか。話しやすい御方でしょう」

 斜め後ろに腰を下ろした巴は、膝に乗ってきた黒猫を撫でながらその人へ目をやった。

「良くして頂いてます。俺が入隊した時に引退された人だったんですね。試験のあと『頑張れよ』と声をかけてくれたのが安西さんだったのを思い出しました。あの人は覚えてないでしょうけど」

 安西と綺堂はその年の入隊試験を見届け、誰々は紅蓮隊に入れた方がいいだのあの新人は氷鷺隊向きだのと散々お節介を働いてから衛明館を去った。翌日の静けさがまるで嵐のようだと感じたほどに、あの二人の残した影は大きかったものだ。

「それが人の縁というものですよ。安西さんから学べる事は全て吸収しなさい」
「はい。あ……深慈郎、鼻血が出てる」

 ふらふらと戻ってきた重傷の深慈郎に気づき、巴は自然に立ち上がった。以前なら黙ったまま何もしなかっただろう。自分から隊士に声をかけるようになったのも、安西が来てからの方が積極的になったように見える。
 処置を遠慮する深慈郎を半ば強引に引っ張り、広間の隅で手当てをし始めた。


「邪魔するぜー。宏幸いるか?」

 通りの良い声が玄関口から聞こえ、その人が廊下に現れる。

「やあ朱雀。いらっしゃい」
「俺も一緒にお邪魔してまーす」
「あれ綺堂さんまで。朱雀と知り合いだったんですか」

 突然の来訪に驚くでもなく隆が挨拶した。朱雀が衛明館へ遊びに来るのはそれほど多くなくても茶飯事だ。手には豪華な三段重。星涛を生け捕りにした褒美の品というわけか。あれが宏幸の手柄と呼べるのか甚だ疑問だが朱雀の中ではそうらしい。

「宏幸は安西さんと手合わせ中です。お待ち頂いてもまともな体では帰ってきませんよ」

 いつぞやに神田の話を個人的に持ちかけてきて「手柄を取ったらお前に褒美やる」と言った気まぐれな神様はこちらには眼中もなく、どかりと隆の横に座った。

「安西って綺堂が言ってた昔の相棒? あーあれか。ガタイは普通だけど強いじゃん」
「安西さんは着やせするからねえ。皓司ほどの着やせ詐欺じゃないけど、あれで四十一歳なんだよ。元気だよね」
「隆も隠居老人みたく座ってねえで部下の面倒ぐらい見ろよ」
「今言われたばっかりなのに耳が痛いなあ」

 ふいに我躯斬龍からの喧騒が途絶える。
 終わったのかと顔を上げればこちらを向いた安西の様子が何やらおかしい。
 一点を凝視したまま動かなくなった安西に、隊士たちも時が止まったかのごとく微動だにせずにいる。

「よ…夜桜の君!!!」

 と、珍妙な名を叫んだ安西が文字通り血眼になって全力疾走してきた。ポイと刀を放り捨て、気味悪いほど高揚した微笑みを浮かべている。あの、安西が。

「こんな所で会えるとは奇遇なんかじゃない、運命です! あの時の柔らかな胸の感触が忘れられずにいました! いや失敬、貴女をひと目見た瞬間から心に決めていたんです! お近づきの印に俺と一発ヤりませんか!!」
「…………は?」

 あろうことか朱雀の手を握り締め、はぁはぁと荒い息を吐きながら最高の暴言を吐いた。
 綺堂でさえ唖然とした表情で相棒の変わりように口を半開きにしている。
 朱雀の膝から重箱がずり落ちて風呂敷の結びが解けた。

「ちょ、何だコイツ……」
「安西 悠と申します! 貴女の生涯の伴侶としてどうかお見知りおき下さい!」
「…………」
「ははっ、恥らって声も出ませんか! たわわに実った果実のような美しい唇から俺の名を紡ぎ出すにはまだ心の準備ができないというわけですね! なんて可愛い人だ!」

 ついに頭がおかしくなったのか、あるいは安西も圭祐のような二重人格だったのか。
 誰も止めることすらできず、皓司自身も頭から爪先まで硬直して身動きが取れなかった。

「安西ちゃん……頭でも打った? 大丈夫?」
「綺堂! 紹介しよう、こちらは俺の嫁になる紅さんだ。町ですれ違いざまにぶつかっちまってな、その時にひと目で惚れた。梅の時期に夜桜の着物をまとって風流な女だとは思ったが、まさか貴女も俺を忘れられずにここまで追いかけてきてくれるなんて男冥利に尽きるというものです!」

 後半は朱雀へ視線を移し、すでに綺堂の反応などお構いなし。
 理性が暴走するとはこういう事を言うのか。体が動かない時ほど頭が冴え冴えとする。

「ああ、お名前は町で貴女の人相を尋ねたら紅さんという美しい名だと聞きました! 城下で名が知れてるってことは近くにお住いなんですね! 近々ご両親にごあいさ」
「いい加減にしやがれ変態野郎!!」

 朱雀の拳が安西の顔面にめり込んだ。その身は軽く遠くへ飛んでいく。
 遊び人の風体をした細腰の神様だが、中身は紛う事なき天界の将軍。その力は人間の比ではない。人界では本来の力を可能なまで抑え込んでいるそうだが、それでなくてもこの世で朱雀に勝てる者など存在しないのだ。

 しかし安西もなかなかしぶとく、亡霊のように起き上がって唇の血をぺろりと舐める。

「これは驚いた───強い女は大好物ですよ」




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