四十.


 長屋と神社を結ぶ道に数軒連なる民家のひとつ。
 木戸を開けると、しんと静まった居間から冷たい空気が流れてきた。長いあいだ人の体温が存在していないからだ。
 片っ端から障子窓を全開にし、奥に積んである文机と座布団をひとつひとつ並べていく。
 机の上には硯と筆、半紙と往来物。


「───ゆう?」

 ひょこっと戸口に現れた子供が目をまん丸に見開いてこちらを見ていた。

「おー、早いじゃねえか。ツバメ」

 ぽかんと口を開いたツバメは人形のように突っ立ったまま動かない。
 並べ終えて戸口に戻り、ツバメの横に立てかけてある暖簾を表へ出した。ひらりとはためく臙脂の布がどこか心地良さそうに思える。

「何してんの……?」
「何って、てめえら小僧の勉強の用意に決まってんだろ」

 豆鉄砲を食らった鳩。そんな顔で相も変わらず放心しているツバメの腹がぐぅと鳴った。そういえばこないだ兄弟が生まれたはずだ。ツバメとリキの他にチビが三人いる。そこへまた子供が生まれたのなら腹いっぱい食わせてもらえないのも道理かと袖をまさぐった。

「今日は米炊いてねえから握り飯ないぞ。小遣いやるから適当に買ってこい」
「……そうじゃなくてさ、何してんの?」
「お前いっつも人の話聞かねえな」

 襟首を掴んで畳の上に座らせ、期待と不安の入り混じった顔で見上げてくる少年の前に腰を下ろして往来物を叩く。

「俺が約束を守ったら勉強するって言ったよな」

 にたりと笑ってみせると豆鉄砲を食らった鳩がみるみる紅潮した。

「約束って……! ゆうはお城に行くって言ったじゃん!」
「隠密に戻るとは言ったが、暖簾を下ろすとは一言も言ってねえし」
「だって、ずっといなかったじゃんかよ……毎日来ても誰もいなかった!」

 子供の数ヶ月なんて瞬く間だろうに、まるで十年分のような怒りをぶつけてくるツバメの頭を撫でてやる。赤らんだ顔が途端にくしゃっと歪み、机を飛び越えて抱きついてきた。いつもなら机に乗るなと怒るところだが今は許そう。

「毎日来てたのか。ありがとな、ツバメ」
「これからはずっと塾やる? ここにいる?」
「ここで寝泊りはできねえがな。副業って分かるか? ちゃんとした仕事の片手間にもうひとつ軽い仕事をするって意味だ」
「……それってお城の仕事と一緒にできるの?」

 衛明館で自分が隊長を任されると知った時、皓司に条件を出した。
 真剣に学びに来ている子供が一人でもいるうちは学習塾を閉めることはできない。調べた限り無賃の寺子屋など江戸にはなかった。
 古巣に馴染むには三日もあれば十分だが、一度遠征を終えてみないことには預かる隊の把握はできない。そこまでは本業に集中し、終わったら副業としてまたこの塾を続ける。ただしひとりで従来通りに続けるのは不可能。
 そこで、勉学に長けた者を数人貸してほしいと条件付けたのだ。

 自分が遠征などで不在の時に子供達の勉強を見てもらう。
 ほとんどは読み書きや習字、初級の歴史を教える程度。まともな教育を受けて育った隊士なら誰にでもできる。あとは子供の相手が得手か不得手か、京橋という武家・役所の多い土地柄も考慮して人選は任せると言うと、皓司は少し考えて適任に目星がつくと答えた。その後紹介された隊士たちには皆ふたつ返事で了承をもらっている。


「俺が来られない時は代理の隊士が来る。どうだ、逃げられねえだろ」
「……ゆうが先生じゃなきゃやだ。他のヤツなんてやだ」

 腹をぐうぐう鳴らしながら首っ玉にしがみついて離れないツバメを引き剥がし、赤い鼻頭を思いきりつまみ上げた。

「男がダダこねるんじゃねえ。そら、団子でも買ってこい。リキも分もな」

 戻ったら勉強だぞと付け足すと、ツバメは満面の笑みで暖簾を叩いて飛び出していく。
 ガキは元気が一番だ。

「あれ、おかえり安西ちゃん。今日から出勤?」

 湯を沸かそうと立ち上がったところで綺堂がひょいと片手を上げて入ってきた。朝っぱらからご足労なことだ。大方、ツバメとの会話も外で聞いていたんだろう。すっとぼけやがって。

「おうよ。お前こそ何の用だ、何も頼んでねえぞ」
「週一で掃除に来てやってるのにひどい言い草だね」
「そうか悪かった留守の間ありがとよ」
「めっちゃ棒読み。先生ともあろう人がそんな態度でいいのかなぁ」

 綺堂は床を軋ませながら土間へ下り、埃ひとつ被っていない釜の蓋を開けてぶら下げていた桶の水を入れる。その上に蒸籠を置き、風呂敷の中身をごろっとぶちまけた。

「栗か? 春なのにどっから採れたんだ」
「朱雀さんから大量に貰ったんだけど食いきれなくてさ、痛んじゃう前にツバメ達にも食わせてあげようかと思ってね。栗は栄養たっぷりだし子供にはいいおやつっしょ」
「朱雀さん? 誰だそれ。ご大層な名前だな」

 聞きなれない名前が出てきた。
 綺堂の交友関係はとにかく広いが、ほとんどは自分も知っている。知っているというか綺堂が事あるごとに紹介してくるから必然と覚えた。
 ちょうど自分が復職した頃に知り合ったらしく、気立てが良くて綺麗な人だから今度紹介すると言って相棒は手際よく竈の火をおこす。栗を蒸している間にちゃっちゃと湯も沸かし、茶の用意までしてくれた。やる事がなくなったので土間口に腰を下ろす。

「朱雀さんてのは独り身か? 年は? 俺好みの美人か?」
「えらい興味津々だね。最近ご無沙汰? 顔は安西ちゃんの好みだと思うけど男性だよ」
「なんだ野郎かよ……。その栗半分炊き込みにしろ。あ、米買ってねえわ」

 途端に興味が失せた。ついでにご無沙汰だ。団子屋のナツとは逢瀬の約束をしているが。
 男の形容に綺麗だの美人だのと平気で使う綺堂の美的感覚がいまだに理解できない。それなら美形か色男と例えるもんだろう。圭祐には悪いが彼は「可愛い」部類。
 とは言ったものの、自分も一度だけ綺麗だと思った男がいる。今となっては露ほどもそう思わないが、初めて見た時は人間離れした綺麗な顔だと思ったのだ。綺堂も「美人な子だね」と感嘆の溜息を漏らした。

「斗上さんとは折り合いよくやってんの?」

 その魔王だ。

「ぼちぼちな。あいつオカンみたいだぞ。あんな風に育てた覚えねえのに」
「こないだきーさんと板張りに行ったとき見てたけど、安西ちゃんの世話好きな所はしっかり受け継いでるように見えたべ」
「世話好きなんてもんじゃねえよ。ありゃババアか姑の根性だ」

 どこで方向性を間違えたのかねえ、と呑気に団扇で火を扇ぐ綺堂の声に続いて、遣いから戻ったツバメの高揚した声が響いた。リキの声も聞こえる。
 蒸し栗のいい匂いに誘われてドタドタと走ってきたかと思えば、また居間へ走っていって座布団を蹴散らし始めた。
 そろそろ悪ガキ兄弟に久しぶりの鉄拳を入れるとしよう。




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