三十九. 襲撃の夜を知らなかったとはいえ、なぜか皓司から必要以上に咎められた気がした宏幸は重苦しい溜息を吐いて畳に寝転がる。ごろごろしているうちに仕切り箪笥へ背をぶつけ、向こうの住人からもれなく苦情がきた。 別に嫉妬しているわけじゃないのだが。 今回のような特別任務や用事がある時、甲斐と皓司は大概つるんで参加する。もちろん二人とも自分より遥かに頭が良く腕も達者なのは重々承知しているつもりだが、何も知らされないのは同じ班長として立場がないというか─── つまり、悔しい。 寺子屋に通うのが嫌で勉強などさっぱり、字もまともに書けない。頭は無理でも腕を上げれば皓司に信頼してもらえるかと日々鍛錬に励むも、成果を問えばにこりともせず「よろしいでしょう」だけなのだ。その「よろしい」は何がよろしいのか。認めてくれたのか否か。 「ぜんっぜん分かんねー……」 「何が?」 珍しく甲斐が独り言に乗ってきてどきりとした。 「あー、その、皓司さんとかお前のこととか」 「おれの何が分からないの」 「や、何っつーか……どう聞いていいのか分かんねー」 「思った言葉でいいヨ。癪に障ったら次の遠征は援護しないから」 「なおさら聞きづれーよ!!」 あっそ、と淡白な返事で無言に戻り、宏幸はまた悶々と考え込む。 いろいろなことを考えているうちにふと一人の女の顔が浮かんだ。 藤の花のような、美しい人。 皓司の母だと紹介された時、何かがチクリと胸に刺さったのを思い出す。あの綺麗な笑顔を思い出してまたチクリと心臓を突かれ、畳から身を起こした。 夕飯は終わったし風呂も入った。今なら会える。 思い立ったら即行動で寝間着を脱ぎ捨て、衛明館を抜け出した。 「あら高井の旦那。なんだかお疲れ顔だね、遠征帰りかい?」 寶屋の暖簾をくぐるとちょうど徳利を両手に下げた千草と鉢合わせた。客つきか。当然といえば当然だが千草はいわゆる看板娘で客が取れない日などない。 「お入り。今ひとり引けたところさね」 禿が休みだから自分で片付けているのだと言って、千草は徳利を台所に下げて戻ってくる。 当たり前のように部屋へ通され、綺麗に整った布団の上に押し出された。普通の遊女は客に対してそんなことしない。 だんだんと分かってくる。自分は男として見られていないのだ。千草と情事はするが「男」ではなく「犬」あるいは「子供」相手。そんな風に思われている気がする。 皓司にとっても自分は「部下」ではなく「駒」に過ぎないということも。だが甲斐のことは「駒であり部下」だと思っている。そういうことなんだろう。 藤の花のあの人は─── 「寂しいから来たんだろ? 旦那は悩み事があると口数が減る」 布団の上に胡坐を掻いたままぼけっとしている自分の膝に千草が乗ってきた。 「何も言わなくていいさ。抱きたけりゃ押し倒して。そうじゃないなら抱かせておくれな」 「え、抱か……えっ?」 「知らないのかい? 女だって男を抱けるんだよ」 いや物理的に無理だろう、いやいやそんなことがあってたまるかと思わず千草の腹のあたりを見てしまう。そびえ立つモノはちゃんとなかった。 千草は婀娜っぽい笑みを浮かべ、何がおかしいのかひとりで笑い続ける。 「いやさ、旦那が他の女のこと考えてるみたいだったから忘れさせてやろうと思ってね」 こういうのは女の勘ならではか。 ただ、藤の花のあの人と千草は同じ枠じゃない。自分の中で何かが決定的に違うのだとはあの時に気づいた。どっちかは自分の知らない感情だと。 「……お千は俺をどう思ってんだ? あーいや、客なのは分かってっけど」 「好きさね。商売口上じゃァないよ、ほんとに好き」 「好きってのにも色々あんだろ……なんつーの、感情の位置づけみたいな」 例え方が分からず適当に聞くと、千草は一瞬ぽかんとした顔で黙った。そもそも遊女相手に何を聞いているのかと恥ずかしくなってくる。金づるの客に好きかと問われて嫌いだと答える遊女はいないだろう。 「はぁ、旦那は誰の愛情を求めてるんだい? あたしじゃないのは分かったよ」 するりと膝から下りた千草は気だるげに畳へ足を崩し、煙管に火をつける。怒らせてしまったかと内心焦った。 「恋煩いとは違うようだけどね。憬れの人でもいるのかい?」 「それ!」 「は?」 「ヤりてえとかそういうんじゃねえのに頭から離れない人がいんだよ。ずっと年上の人妻で、笑った顔がすげー優しくて、そんで……」 「あったかい?」 「それ!!」 つい興奮して千草の肩を掴み、答えを迫る。モヤモヤしていたものが晴れる気がしてきた。千草なら自分が知らないこの感情を知っている。 また呆然となった千草は長い間をおいてプッと吹き出し、煙管を盆に置く。 「そりゃァ旦那、あれさね。理想の母親を見てるんだよ」 ───まさかの、母親。 「旦那は生まれた時におっかさんと死に別れたから母の愛情ってモンを知らないだろ? 一番上の姉さんがどれだけ代わりになってくれても、腹から出してくれた母そのものにはなり得ない」 その通りだ。長姉を母だと思ったことなどなく、いつでも彼女は「姉」だった。 「んで、旦那はその人が自分の息子に優しく接してるのを見て『ああ、俺のおっかさんじゃないんだ』って傷ついちまったんだろうね」 「ちょ、なんで子供が息子だとかまで分かるんだよ……お前すごくね?」 「ダテに客商売やってないからねえ。いろんな男がいるもんさ。ただ性欲を吐き出しにくる奴、報われない相手を重ねてくる奴、会えない母の愛情を求めてくる奴」 その中のどれかに自分も入っているんだろうか。ピンと来た例はないが。 「でも旦那はそのどれでもない。旦那はあたしをどう思ってんだい?」 「え、そりゃ……す、好きじゃなかったら来ねーよ」 「好きにも色々あるだろ、感情的な位置づけってやつさ」 やられた。 あの人への感情が母を求めているものだとすれば、残る感情は恋慕だと知っている。 多分、そういうことだ。 「ついでにもうひとつ当ててやろっか。斗上の旦那はアンタのことちゃーんと見てるよ。数えるほどしか相手してないけど、いつも言うんだよ。これからも宏幸をよろしくお願いしますってさ。まァ言っちゃ何だけど斗上の旦那の方が格段に床上手だね」 ───何もかもが敗北した。上司の信頼を得るより死んでもらいたいとすら思った。 「でもあたしは旦那に抱かれてる時が一番幸せ。下手糞でも一生懸命どこが気持ちいいか聞」 「待て待て、それ以上言うな!」 「あーそういえば麻績柴の旦那も」 「そっちは是非! あいつもお千の客なのかよ!?」 「あらやきもち焼いてくれてるのかい? 麻績柴の旦那も床だけは上手そうだよね」 「……ん? “上手そう”?」 「金積まれたってあんな外道はお断りだよ。指名されたこたないけど」 ───心底ほっとした。さっきまでの悩みなんかどうでも良くなるくらいほっとした。 |
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