三十四.


 役所を回って情報を集め、江戸の諜報にも声をかけ、不足は従属の飛車に調べさせ。
 あの黒服集団がいつどこへ現れるかに調査の重点を置いた結果、新月を狙っているようだと飛車に助言される。暦と照らし合わせてみると確かにその通り。
 場所は───自分なら次はここで獲物を狙う。その程度の勘に頼るしかなかった。

 が、どうやら年寄りの勘もまだまだ捨てたものではないらしい。
 いざ目星の場所へこっそり足を運ぶと、変装した甲斐が珍妙な歌を口ずさみながら囮になっているではないか。潜伏中の隊士も周辺にいる。無論、見えはしないが。
 そうして待つこと数十分、民家の壁から黒い影がすっと浮き上がった。敵は壁に張り付いて身を隠し、通行人を物色していたようだ。
 笠をかぶってするりと甲斐の後ろに立ち、呼び止めるまでの間わずか一秒足らず。
 隙のない動作。標的との間合い。その一秒で複数の敵の気配が動いた。
 いい組織力だと感心する。
 相手が何者であっても警戒を怠らず、容赦もしない。
 禁じられた異国へ乗り込んでくるだけの能力は確かにある。

(油断するなよ、甲斐)

 見る限り丸腰だ。服装からして苦無や短刀を装備しているようにも見えない。籠を背負ってはいるが、武器は仕込んでないだろう。
 体術が得手であれば万一襲われてもわずかの時間稼ぎになるが、あいつは駄目なのだ。敵に刀で負けたことがないという自負が、刀一本に頼る傾向をより強めている。

 ぼそぼそとやりとりをしている間に刃物を押し付けられ、さっそく逃げ場を失くした。
 甲斐に焦る様子はない。男も周囲の敵味方も、この時点ではまだ動く気配はなかった。
 次は一瞬だろう。
 どちらが先に、どう出るか。
 浄正は刀の柄に手をかけ、すっと腰を落とした。



 …タンッ───


 誰かが屋根を踏む軽やかな音。
 それが引き金となって、笠の男が甲斐の首を切った。甲斐は男の腿を蹴って宙に後転する。
 潜伏していた敵味方が一斉に闇夜へ躍り出た。
 物音を立てた阿呆は誰だ?

「おるぁーっ!!」

 次いで先刻の軽やかな音と同じ場所から、今度は屋根瓦を踏み抜くけたたましい音と共に威勢のいい掛け声が降ってくる。
 笠の男が屋根を仰ぎ見た瞬間、黒い影がふたつ男を押し潰すように落ちた。
 影のひとつの膝が笠の男の顔面にめり込んだのが見えた気がする。




「鼠一匹逃がすんじゃねえぞ!」

 予期せぬ物音に反応して敵勢が動き、安西の声を合図に潜伏隊も躍り出た。
 四方の屋根から甲斐めがけて飛び降りてきた敵三人が同時に宙で反っくり返り、力なく地に落ちる。巴の苦無が喉元に刺さっていた。投げた当人は入れ替わりに屋根へ飛び乗り、疾風のごとく残党を追って消える。
 笠の男を守るように囲んだ敵の向こうに、二刀を構えた皓司の姿があった。
 ───と、耳障りな雄叫びと共に屋根から何かが落ちてくる。
 笠の男が仰ぎ見た瞬間、絡み合ったふたつの影のひとつが男の顔面に膝蹴りを入れてそのまま押し潰してしまった。
 呆気ないとはまさにこの状況だ。

「はぁー逃げ足の早ぇ奴だな……て、おめー何やってんだ?」
「……周りを見てから質問しなヨ」

 気絶した笠の男の上に乗り、仕留めた獲物を両手足で固めた宏幸は、そこでようやく周りを見渡して「うおっ」と咄嗟に首を引っ込める。
 宏幸の頭上を白刃が水平に翻った。笠の男を囲んでいた敵が円を描いてばたばたと倒れる。

「ここで何をしているのですか、宏幸」

 二刀の血を払った皓司が抜き身のまま歩み寄り、宏幸と獲物を冷たい双眸で見下ろした。

「今夜は番町の警邏をお願いしたはずですが」
「や、老夫婦殺して放火しようとしてた奴を見つけて…追っかけてたっス……」
「ここは神田ですよ。管轄外にも程があるでしょう」
「あい……すんません」

 管轄区域を越える前に捕らえるのは必然だ。番町から神田まで獲物を見失わずに追いかけ捕獲した労力など褒めるに値しない。

「お退きなさい。大事な獲物です」
「へっ? ……あーなんか踏んづけてると思ったら」

 獲物の下にもう一人いることさえ気づいてなかったらしい。
 どこまでおめでたい頭をしているのか。
 自分の獲物を押さえ込んでいるせいでもたもたしている宏幸を見兼ね、皓司は暴れる殺人放火魔の腹を容赦なく蹴り上げた。遠征用の洋靴を履いているのでさぞかし効いただろう。宏幸もろとも道の端まで吹っ飛び、二人とも起き上がらなかった。

「貴方は大丈夫ですか」

 気絶している笠の男を縄で縛り上げた皓司が、ややあって尋ねてくる。

「掠り傷ですヨ」
「塗り毒の方です」
「特に何とも」
「そうですか。ご苦労様でした」

 こんな任務に労いをくれるとは何事か。
 宏幸の乱入で機嫌が悪いのかと思ったが、まあ詮索はしないでおこう。

「ご丁寧にどうも」
「もう一仕事ありますのでよろしくお願いします」

 ───拷問の通訳も自分なのか。
 急にどっしりと疲れた。遠征より疲労感が濃いのは自由に身動きが取れなかったせいだ。できれば明日にしてもらいたいが、このまま夜通し拷問だろう。

「よっ、お手柄だったなー」

 転がった籠を拾おうとして、まさかここにいるとは思わなかった人の声が飛んでくる。

「先代。やはりいらしてましたか」
「出る間もなかったがね。組織でやったのか?」
「いいえ、安西さんの意向で私的介入という事になっております」
「そら賢明だな。ま、片付いてよかった。宏幸に褒美やれよ」

 皓司の眉間がぴくりと波打つのを見て、浄正はにやにやと笑いながらその肩を叩いた。




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