三十二. 神田の件はともかく、もう一つの話は心底納得がいかない。 自分が隠密衆を辞める時は年齢でも体力でもなく『それ』が最大の理由になる。浄正が引退し、筆頭が代わった時点で確定したも同然なのだ。なのに安西ときたら知ってか知らずか───本当に厄介な人だ。 「安西さん、どうして俺が御頭の集中鍛錬なんかしなきゃいけないんですか? 皓司の方が適役ですよ」 「私は巴に個人指導を頼まれたので空いておりません」 「何だいそれ。初耳だね」 巴曰く、体術が不得手なので鍛えて欲しいとのこと。 剣術においては三人衆と同格、飛び道具の扱いにおいては隠密衆随一。しかし体術はからきしではないものの特別優れているとも評せない。肉弾戦に持ち込まれない為に刀や苦無の扱いを徹底してきたのだが、最近になって体術も鍛えたいと思い始めたのだそうだ。 「あの巴がねえ。今の特技だけでも十二分の戦力なのに、何でまた」 「朱雀に負けたのが相当悔しかったようですよ。女の妖魔に化けた朱雀に、ですが」 「ああ、昨年のあれね。でも朱雀の体術と張り合うのは無駄じゃないかな」 「良いではありませんか。巴にも悔しいという感情があるのだと知って嬉しく思います」 さらに自分を頼ってくれた事が嬉しいだのと惚気のように語り出す皓司を尻目に、隆は先ほどから調査書に目を落としたままウンともスンとも返事をしない安西の後頭部をつつく。 「安西さん。ねえ聞いてます?」 「聞いてますよ。そういうことだから殿下はあの坊主を鍛えて下さい」 「安西さんは何をするんですか?」 「俺は神田」 「交代しましょうよ」 すると安西はばさりと帳面を畳に投げ捨てて溜息を吐いた。不機嫌丸出しだ。 「殿下は辻斬りの背景について何も情報を持っとらんでしょう」 「その調査書に書いてあることぐらいは知ってますよー」 勝呂が隠密衆に仕事を回さないのなら個人的には神田の件などどうでもいい。たまたま犯行現場に遭遇すれば解決はするが、あえて自分から首を突っ込むほど気になる事もない。 むしろ私的介入してまで解決しようとこだわる理由は何なのか。 そう、まずはそれが知りたい。 「どうして辻斬りにこだわってるんですか? 安西さんが町の未解決事件に積極的だった記憶はないんだけどなあ。くだらない仕事は役人にやらせとけ、ってよく言ってましたよね」 安西は帳面から二枚抜き取って見比べ、なにやら真剣に考え込んでいる。そういう時はすぐに喋ってくれない。 「皓司も辻斬りに興味あるのかい?」 「興味はありますね。異国人が不慣れな土地でこうまで身を隠せるものでしょうか。我々に指令が来ない事情も大いに気になります」 「よし、今夜決行だ」 唐突に安西が立ち上がって部屋を出て行ってしまった。 二人で顔を見合わせていると、程なくして部屋の主がまた戻ってくる。 「囮はこいつで。借りますよ、斗上さん」 縁側で微睡んでいたのか、やや寝ぼけ眼の甲斐が室内に押し入れられた。 「……囮?」 「さっき広間で説明しただろ。神田の囮作戦だ」 「……おれが?」 とりあえず座れと促されて甲斐は渋々腰を下ろす。安西は見比べていた帳面をこちらに見せて指を差した。辻斬りが起こった日時と場所が時系列に書かれているだけの紙だ。 「日時を見るに犯行は全て新月の夜です。月明かりを避けとるんでしょう」 「暦まで照合するとはさすが子供達に勉学を教えていた先生ですね」 ほう、と感嘆の息を漏らした皓司が褒める。 「今夜は新月だから高確率。民間人が狙われる前にこっちから誘い込んで捕まえます」 「誘い込むって、神田のどこに現れるか目星はついてるんですか?」 「発生場所から大体の行動範囲は読めます。次はこの三叉路が狙い所じゃねえかな」 安西は町図を広げ、朱墨で犯行現場にひとつずつ×印をつけていった。何か法則的な陣でも浮かぶのかと思ったが、脈絡はまったくない。 ただ、最初の数件と後半の数件で気になる点がひとつ。 やる気なさそうに見ていた甲斐も気づいたようで、ひょいと身を乗り出す。 「ここらへんは辻斬りが始まってからの現場ですよネ。手当たり次第って感じの。対して直近のは重点的に範囲を狭めてる。敵が対象の情報を得たんでしょうが、このあたりに何かあるんデスか?」 「勝呂様の私宅がここにありますね。わずかに現場から逸れていますが」 皓司が答えると甲斐はぴくりと眉を動かした。 「敵が探してるのは勝呂サンとか。裏で何かしてそうな顔ですヨ」 「その飼い猫だ。祇城が狙われてる」 安西の断言に自分は元より皓司も甲斐も束の間放心。 どうして分かるのかと訊くと、勝呂から直接、とあっさりした答えが返ってきた。相手は清の間者で王政府とも繋がりのある暗殺集団。彼らが日本へ襲来したのは結果的に勝呂が原因だという。 よくもそこまで聞き出せたものだ。 安西と勝呂はどう考えても相容れない。脅したか、うまい取引条件を揃えたか。 「勝呂さんが原因って……何をしたんですか?」 「ほんの出来心ってやつですかね。蟻の巣に指を突っ込んだら凶暴な主に噛まれたみたいな。本人もまさかこんな事になるとは思わなかったそうですよ」 「それでひた隠しにしてるわけですか。だったらご自分で解決して欲しいなあ」 まったく迷惑な話だ。一気に興味が失せて立ち上がる。 囮作戦とやらの頭数に自分は入っていないようだし、安西の好きにさせておこう。 「まあ怪我のないよう頑張って下さい。俺はこれで」 「集中鍛錬、早めに頼みますよ」 忘れていた。 どっちがいいかと問われれば勝呂の尻拭いより浄次のシゴキの方が楽だが。 さてどうしようかな、と重い腰を叩いて隆は部屋を出た。 |
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