二十八.


 あとは勝呂を捕まえて話すだけ。
 ただそれだけで済むのに、老中様はどんだけ忙しいのかと呆れるほどに捕まらなかった。
 結局、急がば回れの理に従って城門近くの階段で待ち伏せることにした安西だが、行き来するのはまったく用のない城仕えの人間ばかり。それも知った古狸の顔が多く、また戻ったのかという会話の繰り返し。うんざりしてきた。

「安西じゃないか」
「はいはい隠密に舞い戻ってきた安西ですが何か?」

 愛想笑いに疲れてしまいには喧嘩腰になる。現役時代からこんな態度だったので今さら目くじらを立てられることはないが、不躾極まりないのは百も承知だ。
 顔を上げると懐かしい人が立っていた。

「御頭。あーいや、先代とお呼びするべきですね」
「お前に言われるとなんか腹立つよ」

 お互いに年を取ったはずだが、変わってない。浄正も同感らしく「変わらんな」と笑った。
 引退後は羽前(秋田)の実家へ帰ったが母の死を看取ってまた江戸に戻ってきたのだと話すと、京橋にいたのは知っていると言われる。こちらも浄正が上野にいるのは知っていた。同じ城下町にいながら挨拶もなしか、と軽くなじってくる浄正に鼻で笑い返す。ガラじゃない。綺堂はちょくちょく顔を出しているらしいが、自分は自分だ。

「ところですまんな。皓司が引きずり戻したそうだが」
「何言っとるんですか、もうあんたの隠密衆じゃないでしょう。詫びられる筋合いはない」
「そらそうだけど。相変わらずきっつい性格だなー」

 浄正は苦笑して片袖を抜き、刀の柄に肘を乗せた。

「誰かを待ってるのか?」
「ええ。老中の勝呂さんに挨拶したいんですが、忙しい人なのか全然見かけんですな」
「忙しくはないだろ、遠征が立て込んでるわけでもないし」
「ならちょっと上手いこと言って誘い出してもらえませんかね。得意でしょう」
「俺が城の人間嫌いなの知ってるくせに戻れっての? 鬼だねお前さん」
「鬼でもタコでもいいですよ」

 待ちくたびれたのでさっさと行ってくれと頼むと、浄正はぶーちく言いながらも石段を上った。
 しかし城へ戻るには及ばず。
 外出するところだったのか勝呂本人が上から降りてきて自分達を見止め、眉を顰めた。




「神田で辻斬り?」

 初耳です、というと瀞舟は少し間を空け、自分が必要以外に町を歩かないことや町人と話をしないことまで察したように「いずれ耳には入ると思うが」と前置きした。

「先日、淡路町の知人を訪ねた折に聞いてな。まだ隠密衆の出入りはないようなので目下諜報が動いているのかもしれぬが、事は昨日今日の話ではない。そこで気になって少々首を突っ込んでみたのだ」

 かつて浄正が若かりし頃から隠密衆のことについては良き相談相手だったと聞いている。ゆえに隠密の動向を気にするのは別段不思議ではないが、たかが辻斬りで瀞舟が気に留めるとは思えなかった。それこそ江戸では茶飯事だ。知っている人が犠牲になったのかと聞くと、そうではないという。

「これを見て欲しい。犯人と思われる人物が所持していたものだ」
「瀞舟様……まさかお命を狙われたんですか?」
「首を突っ込んだ、と言ったであろう。夜半に神田を歩いたら見事釣れたというわけだ」

 軽く笑ってくれるが、下手をすれば瀞舟の身もただでは済まなかったはず。
 手渡された短刀───否、刀というには歪で不恰好な苦無もどきを見てもさっぱり背景が読めない。それより瀞舟の突飛な振る舞いに心臓を掻き毟られる思いだった。
 平静を装ってもこの人には無意味だと分かっていながら、何とか気持ちを落ち着かせる。

「お怪我がなくて何よりです。相手の素性は分かったんですか?」
「それが気掛かりなところでな。正面から現れて一言尋ねられ、異国語のようだったので『何を申しているか分からぬ』と答えると無言で斬りかかられた。訓練された動きではあったが、咄嗟の事で私も身を守るのが精一杯でな、返り討ちにしてしまった」

 この家にいた頃、瀞舟に刀を習ったとはいえその本領は知らない。
 咄嗟の事で身を守るのが精一杯だったというわりに相手を『訓練された動きだった』と分析している。それほどには余裕があったのだ。状況にも、己の腕にも。

「相手は単独ですか?」
「そのようだが、絶対に一人とも言い切れぬ。組織的なものを感じた」
「異国語だったとおっしゃいましたが、何か聞き取れた言葉はありませんか。こんな風だったという情報だけでも有益です」

 瀞舟の口ぶりを察するに、断片的であってもいくらかの情報は得ていると見えた。
 もっと情報をよこせとせがんでいるように受け取られたのか、瀞舟はふと笑って穏やかな眼差しをこちらに向ける。

「巴は仕事の話になると饒舌だな。いや、よく働いているようで安心した」

 そうではない。この人が心配なだけだ。
 放っておけば更なる危険に首を突っ込むのではないかと。
 たとえ恐ろしく腕の立つ人であっても、二度とこんなことはして欲しくない。
 それを伝える術に考えあぐね、また黙ってしまう。

「マオ」

 気まずい沈黙をさらりと流してくれた瀞舟は変な言葉を発し、手近にあった紙を引き寄せて細筆で『猫』と書く。

「マオというのは清の国で猫を表す言葉でもある」
「ねこ、ですか」
「他にも同音の物事はあるだろうが、参考までに。あるいは清の言葉ではないかもしれぬ」

 知り得たのはそれだけだ、と瀞舟はあっさり打ち切った。
 あとは隠密衆に任せてよろしいかと聞かれ、頷く代わりにもうこの件には関わらないで欲しいとお願いする。ついでに苦無もどきも預かった。

「帰ったら上司に報告します」
「あなた、巴とのお話は終わりました?」

 襷がけ姿の真夜が稽古場に顔を覗かせる。ちょうど終わったので帰ると伝えると、真夜は少女のように小首を傾げ「お台所に来て」と袖を引いてきた。
 昼食の用意をしていたのか、土間は味噌汁のいい匂いに包まれている。
 正午の少し前なら稽古が終わって一段落しているだろうと見計らって訪問したつもりが、昼の時間を邪魔してしまった。

「ちょっと味見してちょうだいな」

 鍋からつまみあげた蕗の煮物を菜箸で口元まで運ばれる。自分でするから一旦箸を置いてくれとは言えない状況で、また真夜が有無を言わさぬといった笑顔で待っているので、逡巡する間もなくおずおずと口を開けた。

「どうかしら? しょっぱくない?」
「美味しいです」

 それ以上に恥ずかしい。

「巴は小さい頃から小食さんだったけれど、蕗の煮物だけは全部食べてくれたものね」
「美味しかったので……他の料理もですけど、これが一番好きで」
「ふふ、ありがとう。おなかが空いたでしょう、すぐお昼ご飯にしますからね」
「え、いやもう帰ります」
「そうそう、巴に半纏を拵えてあるのよ。身幅と丈は凌より少し小さめにしてあるけれど、あとで袖を通してみてちょうだいな」

 ───当分帰れそうになかった。




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