二十七.


 江戸から徒歩で一刻ほど。
 目的地へ着いたはいいが、巴はその家を前にして重い溜息を吐いた。
 借りたものを返しに来たと言えば不自然な来訪ではないだろうか。

「巴兄様?」

 開け放たれた門の中から二藍の着物を着た女が出てくる。凛とした佇まいに無表情。かつては一つ屋根の下で暮らしていた子だが、どうにも苦手だった。嫌いではないのだが。

「玲。あの、瀞舟様はご在宅かな」

 言葉を交わしたのは何年ぶりだろうか。
 玲の双子の兄・凌とはたまに町で出会う。会えば黙っているわけがない凌と違い、玲は同じ家で顔を合わせてもあまり話しかけてきたりはしなかった。時折気が向いたように「遊んで下さいまし」と近づいてきて、勝手に一人で遊び出す。当時は長かった自分の髪を編んだり、くるくると結い上げて簪を挿してきたり。大きな人形だと認識されていたのかもしれない。

「存じませんわ」

 玲はにべもなくそう言った。
 家から出てきたのに父の所在を知らないということは、姿を見ていないと解釈していいのか。
 つまり留守であると。

「ご在宅も何もご自分の目で確かめれば宜しいでしょう」

 御免あそばせ、と目を伏せてすたすたと外へ出て行ってしまう。心なしか怒っているようにも思えた。いや、元からこういう性格の子だったか。
 留守なら仕方ない、また日を改めて出直そう。

「あれ、巴じゃん。お帰り」

 来た道を戻ろうとして、今度はどこかから帰ってきたらしい凌と鉢合わせた。
 巾着をぶんぶん振り回して近づいてきた彼は、自分が抱えている風呂敷を興味津々といった顔で覗き込んでくる。

「それ何? あ、もしかしてお袋が作った半纏?」
「いや、違う。瀞舟様に用があって来たんだけど、留守みたいだから帰ろうと」
「親父ならいるけど? 今日お稽古の日だし。誰が留守なんて言ったの?」

 ……なんだか様子が分からなくなってきた。
 玲に言われた台詞をそのまま伝えると、凌は途端にけらけらと笑い出す。

「そりゃあ怒るよ。ここ、どこだか分かってる?」
「え……もしかして家を間違えたか?」

 笑い声がさらに大きくなった。しまいには道端にしゃがんで腹を抱えている。
 はて、玲がこの門から出てきたのだからここは瀞舟の家ではないのか。斗上の家だと思い込んでいたのは実は隣家で、たまたま訪問していた玲が偶然出てきただけか?
 玄関まで行かなくてよかった。

「巴ってほんと天然だよね。そんな調子で大丈夫なの? 犬小屋で遊ばれてんじゃね?」
「ああ、家を間違えたから玲は怒ってたんだな」
「なんでそーなるかな。もっとよく考えてよ、ここはウチでしょ」
「うち……? 今、違うって」
「俺は言ってない。巴が勝手に会話内容を勘違いしてるだけ」
「ごめん、よく分からないんだが───」

 凌はよく喋るわりに時々謎かけのような話術を使うので難しい。そういうところは兄の皓司に似ていると思った。もちろん、父の瀞舟にも。

「あのさ、巴。いい加減に自覚してくれないかな」

 自覚。耳の痛い言葉が出てきた。

「巴はうちの子。俺と玲のもう一人の兄で、兄貴にとってはもう一人の弟で、親父とお袋にとっては四人目の子供なわけ。分かる?」

 ほんの数年とはいえ斗上の家で暮らしたのだ、その位置づけは理解できる。
 だがおいそれと頷くにはおこがましすぎて、縦にも横にも首を振れないまま黙った。
 凌は立ち上がって巾着を袖に仕舞い、なぜか手を繋いでくる。

「ただいま、って言えばいいんだよ。用がなくても勝手に入っていーの」

 ここは巴の家なんだから。
 そう言って返事も待たずに玄関まで引っ張られた。
 人の優しさに触れるたび、自分の愚鈍さを思い知る。相手に応えようとしてもどうしていいか分からなくなるのだ。
 謝るのは違う気がして、ただ手を引かれるままに家へ上がった。




「お帰り、巴」
「ただいま…です」

 衛明館では日常的に口にするものの、やはりこの家でそれを言うのは気恥ずかしい。
 瀞舟は気に留める様子もなく───というより明らかに見抜いている表情で───迎えてくれた。稽古場には一人も生徒がいない。午前の稽古は終わったから好きなだけゆっくりしていけばいいと先回りされたが、長居するつもりはなかった。

「前にお借りした羽織を返しにきました。その節は大変ご無礼を」

 年明け早々、真夜中に衛明館を抜け出してこの庭へ勝手に入り、教えを請うた。
 自分の過ちは何なのかと。
 雨雪がちらつく朝靄の中、瀞舟は教えてくれた。
 “人”の心を知らないことだと。
 先刻の玲が怒っていたように感じたのは、凌に言われた通り自分が斗上の家の子だと自覚していないからだ。他人行儀に瀞舟の所在を尋ね、「ただいま」さえ言わなかった。悪いことをした。

「生地が痛んだかもしれないので、念のため瑠璃屋で整え直してもらいました」

 風呂敷ごと差し出すと、瀞舟は「わざわざありがとう」と中も見ずに脇へ置く。

「帰ってくる口実にはなったな。さて、今日は何を持たせて次の口実にしてもらおうか」
「……すみません。でも瀞舟様にお会いしたかったのは本当です」

 会いたくてもついでの用がなければ巴は帰って来られないのだろうから、と見抜かれてしまってはぐうの音も出ない。

「しかし都合の良い時に来てくれた。私から少し話をしても良いかな」




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