二十五.


 春の訪れを囁くように、町にはぽつぽつと梅の花が咲き始めている。
 木々を仰ぎ見て自然と笑みが浮かんだ。『一花』という名は白梅に由来するらしい。自分の名前を気に入っているのか、いつも白梅を模った簪を身に着けていた教え子を思い出す。
 悪ガキ兄弟のツバメとリキ、算術が好きな陽太郎、絵の上手いひなた───京橋の家を空けてまだひと月あまりだというのに、遠い昔のように錯覚するほど古巣に馴染んでいる。


「っと、失礼しました」

 すでに春は来ているのか、暖かい陽気に惑わされて柄にもなく人にぶつかった。
 餅のような柔らかい球体が右腕に触れ、手毬のように弾んで離れる。一瞬の出来事だが間違いなく女の胸の感触だ。それも結構な上玉の。

「いえ。こちらこそ」

 女が振り返る。
 夜桜の着物に鮮やかな紅の髪がふわりとそよぎ、微かな甘い香りが鼻をくすぐった。

「……───」

 むきたての桃のような肌に大きな金色の瞳。金といっても緑がかって見える、まるでしなやかな雌猫が人に化けたかの如き面立ちの美女だった。
 肩越しに微笑を浮かべる肉厚の唇は艶めいていて、今にも甘い蜜を滴らせそうな熟れた果実そのもの。男を知らない生娘のそれとは違うが、熟女というには穢れのない色艶だ。細いうなじが脳裏に焼きついた。

 すでに立ち去った女の残り香がまだ鼻先に残っている。
 触れてみなければ気づかない程度の微香ながら、それは今までに知った女たちの誰からも感じたことのない、誰にも似合わない特上の香りだった。
 百花に先駆け梅花が咲いたばかりの如月、ひとり夜桜を纏って出かけるとは粋な女だ。
 これから逢引だろうか。




「あら悠さん、久しぶりね。もう飽きられちゃったかと思った」

 現役の時から馴染みの団子屋に足を運ぶと、看板娘のナツが軽やかに出てくる。

「飽きるも何も最初っから言ってるだろ。お前の店の団子が一番うまい」
「美味しいのはお団子だけ?」

 意味深に覗き込んでくるナツのうなじの先に親父の渋い顔が見えた。嫁入り前の大事な娘をたぶらかさんでくれ、といった風だ。心配しなくても何度かご馳走になっている。
 茶と団子を注文して往来を眺めると、人の流れに見知った顔があった。

「祇城」

 呼び止められた本人はぴたっと足を止め、きょろきょろするでもなく真っ直ぐにこちらを向く。耳がいい。どの方向から声がしたかを一寸の狂いもなく正確に捉えて視線を合わせた。
 ほてほてと歩いてきた祇城は黙って正面に立ち、ぺこりと軽く頭を下げる。

「終わったから戻っていいぞ」

 力仕事に向いてない隊士には町の見廻りをさせていた。ほっといても日が暮れる前に皆戻ってくるが、祇城はあまり町をぶらつくのが好きじゃなさそうだ。そんな気がした。
 分かりました、と呟いて踵を返そうとする彼の手首を掴み、引き止める。

「しけたツラしてんな。雑踏に酔ったか?」
「いいえ。平気です」
「にしちゃあ気もそぞろって感じだ。大体ここはうちの管轄じゃない。見廻ってた理由は?」

 ぴくりと反応した手首に彼が動揺しているのを悟った。

「責めてるわけじゃねえって。まあ座れ。おいナツ、団子追加」
「裏通りに勝呂様の私宅があります。最近この辺で物騒な事件があると聞いて気になりました」

 祇城は淡々とした語り口で唐突に白状し、すとんと隣に腰を下ろす。

「勝呂様というのは俺の恩人です」
「知ってるよ。お前がその恋人に何か言われて落ち込んでることも」
「…………!」

 祇城の唇が微かに歪んだ。
 誰が言ったか猫柳色とは云い得て妙、淡く陽に透けた薄茶の髪がさらりと肩口を滑り落ちる。
 俯いた少年の頭に手を乗せ、ぐりぐりと回した。

「保智が言いふらしたんじゃない。相談の対処に困ってる保智を見かねた甲斐が乗っかって、それをたまたま俺が盗み聞いた。で、俺も勝呂さんに用があるからついでにお前の悩み解決を引き受けた。ここまでは理解できたか?」

 手の下ですぐにコクリと返事がある。
 ほどなくして看板娘が団子と茶を持ってきた。皿の下にスッと置かれた千代紙を何食わぬ顔で抜き取って懐に入れ、ぼりぼりと腹を掻く真似をしてみせる。

「ただな、どうやって老中に目通り願うかが問題だ。俺から呼びつけるわけにゃいかんし、城内で待ち伏せしても遭遇する確率なんてたかが知れてる。そこで今お前の口からいい情報をもらった。勝呂さんが自宅に帰る日は決まってるのか?」

 さっそく団子に手をつけ、祇城にも食べるよう勧めた。彼は素直に「いただきます」といって手を伸ばす。腹が減っていたのかもしれない。

「月始めの週を除いて毎週末、土曜か日曜です」
「なら今日は家にいるのか。月末の日曜だ」
「いいえ、しばらく帰らないと言っていました」

 思わず縁台からこけ落ちそうになった。物事はうまくいかないものだ。

「確かめたのか? 本当に居ないかどうか」
「……家に来るなと言われたので見てません。でも、本当だと思います」
「嘘をつくような人間じゃない?」
「はい」

 やけにきっぱりと断言する。恋は盲目と言うが、あえて詮索はしないでおこう。
 黙々と団子を平らげた祇城は丁寧に「ご馳走様でした」と言い、帯に通してある小さな巾着袋の紐を解いた。団子代なら無用だと手を押しやると、そうではなく見せたいものがあるという。
 巾着の中から取り出したものを手に乗せ、ずいと近づけてきた。

「黄緑色の玉です」
「見れば分かる」

 キラキラと眩い光を放つ若葉色の石を、祇城は“ギョク”と呼んで大切そうに掌で包む。

「勝呂様が買ってきてくれました。俺の目の色に似ていたからと───。当時は知りませんでしたがこの玉は限られた場所でしか採れない宝石で、とても高価なものだと貴嶺様に聞きました。異国では王様や貴族だけが身につけられるんだそうです」

 前々代の隊長は雑学にも長けていたらしい。
 宝玉なんぞに興味はないが、たしかにこの国では見たことがない。翡翠とは違うようだ。
 大富豪しか身につけられないともなれば目玉の飛び出る値段だろう。いくら城仕えの老中が高給取りだからといって、異国の基準ならせいぜい中流階級とやらのはず。
 そんな高価なものを恋人の目の色に似ているなんてキザな理由で買ってくるのは度が過ぎやしないか。あるいは、それほどにこの少年を溺愛していたのか。




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