二十二.


 故意ではないのに、自分が担いでいた角材が保智に当たって圭祐に怒られた。前後不注意は認めるが保智も少しは周囲に気を配ってもらいたい。己のもっさり加減に自覚がなさすぎる。

 過ぎたことはいいとして、その最中に妙な視線を感じていた。
 気づかれないよう何食わぬ顔で目を走らせ、途中で安西と視線がぶつかったがこちらはむしろ自分たちをガン見していたので送り主とは違う。というか、露骨に見られているのに安西の視線をまったく感じないのが薄ら寒い。どういう眼力をしているのだろう。
 ほどなくして視線の人物を発見。
 自分を見ていたのではなく後ろの圭祐を見ていたらしい。
 作業の合間にちらっ、ちらっ、と目を上げてはすぐ手元へ視線を戻している。分かりやすいほどの挙動不審で、理由は考えるまでもなく想像できた。どうやら根本的な勘違いをしているようだが、まあ自分には関係ない。ほっとこう。

 それよりも彼が安西のことを『悠の兄貴』と呼んでいるのが気になった。
 安西は同性から下の名前で呼ばれるのを嫌がっていたはずだ。かつて寝食を共にした皓司でさえ許されていないのだから、彼の名を呼べる男は血縁者だけだろうと思ったのだが。

「あのーすんません、紀一さん」
「はい何でしょう?」

 角材を担いだまま広間に乗り込む。
 ひょろっとした印象ながら、近くで見ると意外にがっしりした腕で驚いた。本物の大工だ。

「安西さんのこと下の名前で呼んでますよね。なんか理由でもあるんスか?」
「名前? あー悠の兄貴ってやつですか?」
「そっス。俺、名前で呼ぶなってバッサリ断られたんで気になって」
「まーだ根に持ってんのか。ちっせえタマだな宏幸」

 斜め向かいの縁側から安西が茶化してきた。根に持っているわけじゃなく単純な興味だと言い訳すると、それなら断られたくだりをわざわざ話す必要はないだろうと返されて負ける。
 自分達のやりとりをぽかんと見ていた紀一が苦笑した。

「最初は俺も断られましたよ。悠の兄貴は近所馴染みのイッテツから……あ、イッテツってぇのはあそこにいるツンツン頭の奴で」
「現役時代の俺の相棒な。あとで紹介してやるよ」
「そうそう現役の頃に紹介されて知り合ったんですが、これがまた格好よかったんでさぁ」

 安西を見て俄かにうっとりした表情で語り出す紀一に、今度は宏幸がぽかんとなる。

「挨拶してる時に近場で火事が起きて、気づいたら二人とも乗り込んでっちまったんです。イッテツは火達磨の家に残されてた子供を抱えて出てくるわ、悠の兄貴は野次馬のひとりをいきなりブン殴るわ、これが放火魔だったんですけど、火消しの出番もなくあっという間でしたよ」

 そんなこともあったなあ、と大工達から笑いが起こった。
 話を聞くに安西のみならず火に飛び込んだ綺堂も格好いいではないかと思ったが、紀一曰く綺堂は昔からそんなことばかりしていたので特に感動も心配もしなかったとのこと。

「悠の兄貴はまっすぐ野次馬に向かってって一発命中だもんでさぁ、誰も犯人だと気づかなかったのにすんげぇ!ってえらい感動しましてね、以来尊敬してるんですわ」
「はあ……で、名前で呼んでもいいと?」
「あ、それはまた別の話なんですけど」
「紀一が二十五歳までに親父から店ぶんどって一人前の棟梁になったら許可してやる。つったら、こいつ本当になりやがった」

 許可もらうのに五年半かかりましたけどね、と軽い感じで照れ笑いを浮かべているが、一人前の大工になるならともかく五年半で棟梁にまでなるとは相当な努力を要しただろう。
 ぺらっとした雰囲気にそぐわず、人は見かけによらないものだ。
 しかしそういう事なら自分も何かを果たせばもしかして……

「宏幸。お前とは交渉しねえぞ」
「う……やっぱ駄目っスよね」

 さらりと下心を見抜かれ、角材ごと床下に沈みたい気分だった。

「何か特別な理由でもあるんスか? 話したくないことだったら別にいいっスけど」
「あ、俺もちょっと知りたいでさぁ」

 古馴染みの紀一でも知らないのか。
 ということはよほど深い事情で、おいそれと聞いてはいけなかったかもしれない。
 安西を窺うと彼は膝で頬杖をつきながら遠くに視線をやった。


「実は本名じゃなくて、殺された恋人の名前なんだ」

 周りにいた者が一斉に手足を止め、しんと静まり返る。
 安西はフッと小さく溜息を吐いて自嘲気味に目を落とした。

「だから他の野郎にあいつの名を呼ばれるのが嫌なわけ」

 納得したか、と笑顔を向けてくるのは反則だ。
 何と返せばいいのか、急に角材が重みを増したように感じる。肩が震えた。

「す、すんません……そんな事情とは知らずに」
「安西ちゃーん、それ俺が聞いた話と違う。死んだ双子の弟の名前じゃなかった?」
「おや不思議ですね。私は人妻との間に出来た隠し子のお名前だと聞きましたが」
「あ、やべ。間違えた」

 ───急に角材が軽くなった。
 これで安西を殴ってもいいだろうか。

「落ち着け宏幸。まーそんな事情だからさ」
「どんな事情っスか! 何ひとつ理解できませんでしたけど!」
「俺の心は繊細なんだよ。他人にズカズカ踏み込まれたくねえの」


 後になって綺堂が教えてくれたのだが、どうやら本当の事情は誰も知らないらしい。
 その件について安西は昔から頑なに喋らないので深追いしないでやってくれ、と念を押されてしまっては頷くしかなかった。




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