二十.


 週半ばから雨日が続いて肌寒かったが、週末はカラッとした晴天に恵まれた。
 水溜りに映った空を覗き込んでいる三つ子をひとまとめにして抱え上げ、縁側に座らせる。

「ほんじゃ行ってくるよ。母ちゃんと兄ちゃんを困らせたらダメだぞ」
「はぁーい」
「いってらっしゃーい」
「おみやげー」

 三匹に手を振り、洗濯中の妻に一声かけて家を出た。
 紀一の家へ赴くと大工仲間は総員集合だったが、やはり日雇い人足は集まっておらず。足りない手は衛明館の連中に補ってもらおう。背中に九の字と笹が描かれた印半纏を渡され、さっそく袖を通したら俺より似合うと紀一に悔しがられた。
 多種多様な副業もどきをあちこちから頼まれる日常だが、大工といえば火消しと並んで江戸の華。一見して飛脚のような紀一でさえ、釘を咥えてひたむきに槌を打つ姿は男の自分が見ても格好いいものだ。

「きーさん、俺が本気で弟子にしてくれって頼んだら雇ってくれる?」
「はぁ? バカ言ってんじゃねーや。てめえの仕事に誇り持てない奴ぁごめんだよ」

 大工や火消しの友人は見習いでも親方でもみんな己の仕事に誇りを持っている。
 そういう生き方に心底惚れていた。

 刀一本で食ってきた昔の自分を誇りに思ったことも卑下したこともない。
 常に人材を募集していた当時の隠密衆は城の外から見ても異様な雰囲気で、そんなに手が足りないのなら自分みたいな凡人でも入用だろうかと門を叩いてみたのが始まりだった。
 思えば長い目では見ていなかったのだが、存外適していたようでそのまま居ついてしまい、のちに安西と出会ってまた少し人生が変わった気がする。

 そうやってふらりふらりと追い風の吹くままに生き、流されるならどこまででも行ってみようかという気分が性に合っていた。しかし引退して家庭に入ってみると、それはそれで自分の性に合っていると思えてくるのだから困ったものだ。これが本当の根なし草ではなかろうか。

 対する安西は自分の翌年に入隊してきた一つ下の田舎者で、小洒落た顔に似合わず方言丸出しで喋るものだから最初は何を言っているのかさっぱり分からなかった。
 とはいえ常にどっしり構えて物事を見極め、その向上心たるや溜息が出るほどの努力家。
 ものの数週間で一切方言を口にしなくなり、代わりにべらんめえ口調になってしまったのは仕方ないとしても、あの時代の隠密衆ではとかくキレの良さが際立つ男だった。
 彼がいなかったら自分はもっと早い時期に辞めていただろう。

「きーさんは昔のこと思い出したりするかね? あん時はこうだったなぁとか」
「はぁ? って何回言わせんのよ。もういっちょ箱持てや」
「あっ! 俺の細腕になんてことを!」




 今日は大広間の張替え工事が入る。
 頼み先の大工は近年評判のいい九重組で、若い衆の腕も良いらしい。安西に九重組という大工を知っているかと聞くと「紀一んとこじゃねえか」とあっさり返され、その一言で即決した。
 誰かの知り合いなら安心して頼める。迂闊に民間人を城へ上げるわけにはいかないのだ。

 畳を乾拭きし、壁の掛け軸や床の間も全部片付けて圭祐はようやく一息ついた。
 何もなくなると本当に広いんだな、と思う。ここを板の間に張り替えるなんて徹夜作業になるのではないか。力仕事に向いている隊士を留めておいて正解だった。
 ふと中庭を見ると、祇城が掃除の手を休めて黒猫を肩に抱いている。

「そういえば祇城、勝呂様の家へ行かなくていいの?」

 いつも遠征が終わると勝呂の私宅を掃除しに行くのが習慣だった。
 彼なりの恩返しなのだろう。勝呂も断らないあたり、祇城の気持ちを汲んでくれていると見える。
 隠密衆にとっては悪評三昧の人だが個人的には嫌いじゃない。

「祇城?」

 返事がないのでもう一度呼ぶと、我に返ったように慌てて振り向いた。

「あ、はい。来なくていいと言われました」
「来なくていい? どうして?」
「……分かりません」

 なんだか歯切れの悪い返事が引っかかる。祇城は言葉を濁したりはぐらかしたりしないはず。
 事情があるのか、それ以上は聞かれたくない様子だったのでそっと離れた。

(勝呂様、忙しいのかな。掃除なら本人が不在でもいいと思うけど)

 掃除の時は大体一泊してくる。泊まらないで帰ってきたことは数えるほどしかなく、先方は仕事で掃除だけしてきたのだとそれはそれはしょんぼりした顔で戻ってくるのだ。
 あれ、と圭祐はひとり首を捻った。
 会えなくても掃除には毎回行っていて、その時は勝呂に断られたりしないわけで。

「なんで今回は断られたんだろ……」
「誰にフラれたんだ?」

 真横から声がして足を止めると、破れた障子の隙間から安西がにやにやとこちらを見ていた。

「安西さん。障子破っちゃダメですよ」
「破ったわけじゃねえよ、外そうとしたら手がズボッと」
「破ったんじゃないですか」

 あとで張り替えておくからケチケチすんな、と反省の色もない返事で立ち上がった彼は、まだ面白そうに人の顔を覗き込んでにやにや笑う。

「色恋沙汰なら相談に乗るぞ。もちろん秘密厳守」

 たしかに色恋沙汰は得意そうだ。百戦錬磨といった感じか。
 黙って歩いている時の安西はどことなく冷たい印象を受けるが、一言二言交わせば大抵の女性はその人柄に惚れるんだろうな、とは安易に想像できる。

「そういう話じゃないですけど、ちょっと気になることがあって。今お城の方々って忙しいんでしょうか? お会いしたい方がいるんです」
「会いたい人? 誰」
「老中の勝呂様です」

 名を口にした途端、なぜか安西はぽかんとした表情でこちらを見下ろしてきた。
 自分が勝呂に会いたいというのはそんなに変だろうか。
 身分違いとはいえ、城内や町で見かけて挨拶すると勝呂は嫌な顔もせずに答えてくれる。他愛のない話でも静かに聞いてくれる人なのだ。仕事上の付き合いでは厳しいかもしれないが、個人的に好きなのはそういう理由があってのこと。
 祇城もきっと勝呂のそういうところを慕っているんだろう。

「あのー……やっぱり班長の立場で老中方にお会いしたいというのは図々しいでしょうか」

 破れた障子に手をかけたまま黙っている安西をそっと窺うと、「いや」と短い一言。

「実は俺も勝呂さんに目通り願いたいと思ってたんだが同じ用件? なわけねえよな」
「え、そうなんですか? 安西さんは何のご用」
「御免下せぇー! 本所相生町の九重組でございやすー!」

 その時、玄関から通りのいい声が響いた。大工の到着だ。

「また後でな」

 庭へ障子を下ろした安西は秘め事のように片目を瞑って、出迎えようと促す。
 さらに気になることが増えてしまった。




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