十七.


 神田の自宅に帰るのは月に数回。妻も子も持ち合わせていない。主に隠密衆という犬どもを管理する役職、衣食住は城で事足りた。
 とは言っても外に私宅を構えていた方が都合のいい事もある。仕事漬けの石頭でいるつもりは毛頭なく、天気のいい日には縁側で大の字になって好きなだけ怠けたい時もあるのだ。

 長屋だの薬屋だので雑然とした夜の町をゆっくりと歩く。
 細かな雨と風が地面に白波を作り、袴の裾を煽るように後ろから前へと通り過ぎた。

「もし。そこの御方」

 か細い男の声に足を止める。真後ろだ。

「猫をご存知ないか」

 ひた、と首筋に冷たい金属が押し当てられた。
 サァサァと降り注ぐ雨の中に自分の白い息が長く伸びて消える。

(マオ)? ああ、耳の後ろに烙印のある子猫か」


 途端、紅色の番傘が木っ端微塵に吹き飛び、白光が闇を裂いた。
 歪に湾曲した粗末な刀。
 やはりな、という思考はその不細工な刃に断ち切られ、腰の刀を抜く。首から足元までを覆った黒服の集団が自分を取り囲んだ。か細い声の主がつと黒笠を押し上げる。

「マオを返せばこの国に危害は加えない」
「薄汚ねえ蛆虫どもが何をくれるって?」
「返す気はない、と」
「返すも返さねえも、元から奪い取っちゃいねえよ」

 笠の男はそれきり口を閉ざすと、黒服の下で鈴を鳴らした。




 今日はどこへ行こうか。馴染みの遊女が多すぎて選び放題はいいが、一人に絞るのも難しい。
 たまにはお千の顔でも拝みに行くかと神田を通り抜けた。
 ふと、どこかで鈴の音が聞こえた気がする。チリンではなくジャランという変な音。
 倦怠に鳴らしていた下駄を止め、傘を閉じた。
 ところどころ灯りのついていた長屋が一斉に真っ暗になり、しんと静まり返る。

(なるほどね)

 最近このあたりで物騒な事が起こるとは風の噂に聞いていた。従属の飛車に調べさせている最中だったが、まさかこんなに早く遭遇するとは運がいいのか悪いのか。
 無意識に長屋の影に身を潜ませ、気配に集中する。犬の習性は死ぬまで治らないらしい。

 住人に気づかれないようそっと井戸を回って屋根を越えた。
 ずるずるした格好の集団が一人の男を追い詰めている。夜目にもあれは見知った顔。
 思わずニタリとほくそ笑んだ。


「控え居ろう! ここにおわす方をどなたと心得る。畏れ多くも美少年趣味の変態野郎、勝呂真人公にあらせられるぞ!」

 チャッチャラーン、と口ずさみつつ勝呂の前に着地し、迫ってきた黒服の首を斬り落とす。
 苦無に似た刃物が四方八方から雨あられのように飛んできた。弾けば長屋に飛んでいく。腰帯に差し込んでいた傘を広げて高速でブン回し、針山になったそれを放り捨てて跳躍した。
 集団の動きは忍びのようで、しかしまったくの別物。刀も異国の蛮刀だ。

「勝呂さんよ、抹殺していいのかこれ。一匹欲しい?」
「いらん」
「んじゃドカンとやっちゃうぞ、っと」

 脇から躍り出てきた黒服の胴体を輪切りにし、遊びはおしまいだと一気に攻め込む。
 ほどなくして笛の音と共に岡っ引き連中がピーヒャラやってきた。

「そこの大男! 何をやってる!」

 人を殺してました、なんて言ったら即御用か。最後の一人を仕留めて脇に転がす。

「どーも、上野の浄正です。見廻りご苦労様です」
「何? 上野の……あっ、かさ…隠密の!?」

 若い岡っ引きの態度が急速に小さくなり、従えた数人の行動を咄嗟に制した。提灯に照らされた辺り一面は雨なのか血なのか判別がつかないほどだったが、立ち込める血臭と山積みの死体は騙せない。
 ここらで噂になっている物騒な連中の一端だろうと説明すると、すぐに奉行を呼んでくると一人を走らせた。それまで待つ義理はない。

「あとはそこの怪我人に聞いてくれ。遊びに行く途中なんで暇する」
「こ、これは勝呂様! お怪我を」
「俺は浄正殿とそいつらの斬り合いに巻き込まれただけだ。何も知らん」

 え、と勝呂の顔を見れば涼しい顔で知らんぷりを決め込まれる。
 この野郎……と思ったが、すぐに考え直して協力してやることにした。犬だけに鼻が自慢で、勝呂からはぷんぷん異臭がする。たんまり恩を売りさばいてやろう。
 遊女とはいつでも遊べるが、勝呂で遊べる機会はそうそうない。

 実は自分が最初に遭遇して追っていたところに勝呂が居合わせてしまったのだと適当にでっち上げ、ついでに犯人の素性は隠密が調査中だから奉行は一切関わるなと金を握らせて脅した。藤堂の旦那によろしくと伝えると、上司の名を聞いた岡っ引きは呆気に取られて肩を落とす。
 どこの地方でも奉行と隠密は密接関係にあるが、昔からあまり良い付き合いではない。
 お互いに干渉しないのが一番だ。
 死体は後日隠密が引き取るから預かっておいてくれと強引に任せ、さっさとその場を離れる。


 勝呂の私宅がこの界隈にあるのは知っていた。
 だが黒服集団はこれで全部ではないだろう。まだ追っ手が潜んでいる可能性もある。
 人目を避けつつ、追っ手に嗅ぎつけられても困らない場所へ行くとしよう。




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