十五.


 夕方になって皓司に遣いを頼まれ町へ出ると、雨日だというのに人の多いこと。
 傘を差して歩くのは面倒くさい。といって水に濡れるのも嫌いだ。背中に柄を差し込んで両手をあけられたら便利なのにと不精なことを考えながら、手渡された紙を見る。
 なんだかよく分からない漢字が一糸乱れぬといった体で整然と並んでいた。漢字だらけでも頭痛がするが、そこにつけてこの流れるような達筆。一種の芸術だ。斗上 皓司という人間の九割は芸術で出来ている。

「なにくび、とり? チン……皮!?」

 漢方に使う薬草らしいが、鳥だの皮だのもはや草ではない。
 神田川を跨いだ筋違橋を渡ると、すぐ左に紀伊国屋薬舗と書かれた暖簾が目についた。
 暖簾の奥は暗くて胡散臭い。見附の役人らしき客がひとりいる。場違いすぎる。
 とりあえず入って紙を渡して薬草をもらえばいいのだ。怖気づくな俺。堂々と行こう。

「宏幸。何してんの?」
「ほあっふ!」

 突然名を呼ばれて珍妙な悲鳴を上げた。
 だが恥ずかしい悲鳴など問題ではない。この声の主は───

「し……栞姉ちゃん!」

 六歳上の末姉・栞が剣道着で立っていた。もちろん竹刀は肩の上。傘など差していない。
 何年ぶりだろうか。自分で家を出ると啖呵切ったのだが、最終的には鬼畜な姉達に追い出されるようにして別れたのが十八の時だった。
 城の真裏が実家なのに一度も帰らず、一度も町で家族と擦れ違ったことがない。
 今さらどんな風に……

「ちょうどいいや、漢方薬買ってきてよ。あたしこれから決闘しに行くから」

 なんて気を遣わなくてもさすが高井家の女だった。

「勤務中だっつの。てか決闘って何だよ……」
「勤務?どこが? 上司のパシリで遣いに出てきた雑兵にしか見えないんだけど」
「サクッと見抜くんじゃねえ! 千里眼でも極めたのか!?」

 と言っている間にも紙を手に押し込まれ、じゃあねーなどと手を振って歩いていく姉の濡れた黒髪を見送ってしまった。傘ぐらい貸してやればよかった。

「……つーか金もらうの忘れた。つーか俺が家まで届けんのかよ」

 さらに凶暴な姉が三人も潜伏している魔の要塞───の、玄関先に放り投げて帰ろう。
 二枚の紙を握り締め、先客と入れ違いに暖簾をくぐった。



「こっちの紙の品がこれ、こっちは調合してある方ね。いやーそれにしても斗上の旦那様はさすがだねえ、この薬草なんかつい先月発見されたばかりの初物なんだよ。なんとか少し取り寄せることができてね、まだ誰にも教えてないんだよね。実はこれ、清の国の」

 薬屋というと無口で陰険な印象だがここの店主はよく喋る。漬物屋に来た気分だ。
 この薬草を煎じれば何に効くだの、説明されてもさっぱり意味が分からない。

「あー俺ぜんぜん詳しくねえからそういう話はいいよ。悪いけど」
「そうかい。ところで最近ね、このあたりに気味の悪い人がいるって噂があってね。見附の近くなのに、役人は誰もそんな人相は知らないって言うんだよね。でも江戸の人間はみんな正直だからさ」

 店を出ようとしてまた店主の長話に引きずれた。治安の話なら聞き捨てるわけにもいかず、それこそ本業なのでしぶしぶ戻って上框に腰を下ろす。

「気味の悪い奴って、具体的に何が気味わりーんだ?」
「それがね、二丁目のお武家さんがある日……」
「遭遇した場所と状況と人相だけでいい」
「ええと、夜に出るって話でね、真っ黒い長羽織を着た集団が、民家の屋根をひょいひょい飛んでいくんだとか。異国語を聞いたって人もいたかな、異国語に聞こえただけかもしれんけどね、とにかく薄気味悪い影で、ほらこの前も辻斬りで人が死んだろ? 奴らの仕業じゃないかって話だよ」

 掻い摘んでこの長さと曖昧さ。情報源にはなったが全体図がまったく見えてこない。

「異国人かもしれねえ黒服集団が夜な夜な人を殺して回ってる、てことか?」
「そうそう、そういうこと。金持ちのお偉いさんだけだったら分かるのにさ、真面目に畑やってる人なんかも犠牲になっちゃってね、でも誰彼構わずって様子じゃないみたいなんだよね」

 犠牲者は貧富に関係なし、かといって無差別でもなし、夜中に集団で行動する黒い影。
 真っ先に思い浮かんだのは自分たち隠密だが、夜中に江戸を飛び回る任務は今現在ない。
 たしかに気味の悪い話だ。犠牲者の接点を洗い出す必要がある。
 上に伝えておくから夜中に出歩くなと念を押し、今度こそ店を出た。

 さっきまではそこそこ明るかったのに、町はもう闇に飲まれている。
 ふいに濡れた黒髪が脳裏を過ぎった。

(栞姉ちゃん……決闘相手ってまさかそいつらじゃねえだろうな)




「宏幸はまだ帰ってこないのかい? そのまま遊郭にでも行ったのかな」

 夕餉の時間になっても帰ってこないとは、何かあったのか。
 頼まれ事のついでに遊んでくるほど無責任な部下ではない。短気で粗野でチンピラの如しだが、性根は似合わないほど真面目なのだ。規則破りの常習犯に見えて、彼が破っているのはせいぜい広間の障子ぐらい。

「少々気がかりですね。探して参りますので先にお食べになっていて下さい」
「子供じゃあるまいに、そんな過保護だからいつまでも虎卍隊は成長しないんだよ」

 過保護、か。耳の痛い話だ。
 どうにも自分は部下を甘やかしてしまう傾向にあるらしい。
 それも性分と割り切って衛明館を後にすると、城門の手前で勝呂と鉢合わせた。

「こんばんは、勝呂様。ご無沙汰しております」
「ああ」

 いつもならもう一言二言あるのだが、さも自分の登場で邪魔が入ったと言いたげな眼差しが返される。急いでいるのだろうか。
 引き止める理由もなく道の先を譲ろうとして、黒い羽織の下に刀が見えた。

「無礼を承知でお尋ねしますが、夜分にどちらへ行かれるのですか」

 老中の帯刀は許されている。それ自体は不思議ではないが、勝呂が普段身に着けている刀と違うのが気になった。指摘すれば目ざとい人間だと警戒される。すぐに腰元から視線を外した。

「貴殿には関係ないだろう。急いでいるのなら先に行け」

 公用でない事は分かった。
 それではと先に城門を抜け、行き違いに宏幸が帰ってきたら笛を一回吹いてくれと門衛に伝える。怪訝な顔でこちらを見ている勝呂と目が合ったが、軽く会釈して神田へ向かった。




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