十二.


「あれ、素敵な顔ですネ。先輩」
「お前ほどじゃねえよ」

 広間へ行く途中、二階から降りてきた甲斐と鉢合わせる。風呂取り合戦の勝者と見える彼は人の顔を無遠慮に眺めて噴き出した。冴希を部屋に引きずり込んでいたのを見たが、そういう趣味ではなさそうだから事故だったのかなと察してくるあたり、噂通りの女たらし。
 じゃじゃ馬娘の涙に油断して部屋の隅まで吹っ飛ばされた。
 お礼参りが拳じゃなく平手だったのは不幸中の幸いとしよう。


 遠征の話が上がったらしく、城から戻ってきた浄次に食後の待機を命じられた。
 待ちに待った“初陣”。
 自分達の時代、国は今ほど豊かな有様ではなかった。もっとも、幕府そのものは好景気だったと言える。裕福は権力に等しく、綱吉は自身の趣味に惜しみなく金を注ぎ、臭いものには蓋をするような政治をした為に貧民ばかりが苦しんだ。
 江戸から一歩出てみれば諸国は荒れ放題で、餓死した子供や動物が幕府の役人に見つからないよう死体に重石をつけて川へ投げ捨てるといった風習がまかり通っていた土地もある。
 世が安泰かそうでないかは江戸の外を見れば一目瞭然なのだ。

「小難しい顔をなさって、お疲れですか」

 正面で茶を啜っている皓司が老体を揶揄してくる。

「そりゃ疲れますよ。こんな楽しい食卓は慣れてないんでね」

 言ったそばから安西の頭上を味噌汁が通過し、浄次の頭にお椀が被さった。さらに飛んできた豆腐を隆と皓司が同時に避けると、浄次が顔面でそれを受け止める。

「……いい加減にせんか貴様ら!」
「メシも防御できんのですか。邪魔だから俺の遠征には絶対ついて来ないで下さいよ」
「防御云々ではない。食べ物を粗末にするなど言語道断、経費の……」
「おいてめえら、嫌いなおかずは御頭めがけて正確に投げろ。全部食ってくれるってよ」

 途端に一角から咆哮があがり、浄次めがけて集中飯撃が飛んできた。
 昔の衛明館では考えられないことだが、これも腑抜けた幕府の一端だ。

 先代・浄正についての評判は良かれ悪かれ町を歩けばしょっちゅう耳にしたものだが、浄次の噂は京橋にいてもまったく聞いたことがない。遠征の出入りに町を歩いてもどれが御頭だか分からないような存在感なのだろう。
 つまらない誤解で世間に悪評を立てられ、親に刷り込まれた子供から外道と呼ばれて石を投げつけられたこともあった浄正には、孤独と表裏一体の立場がよく似合っていた。
 それでこそ浄正だったとも思う。

 本人には言っていないが、自分が隠密を選んだのは他でもない浄正への憧れだ。
 否、憧れとは少し違った。
 あの男が為さんとするものをこの目で見てみたかったのだ。
 多くの精鋭を従えながらなぜ孤独なのだろうかと。
 国の為に戦っているのに、なぜ民衆から罵られて黙っているのだろうかと。


「俺が入隊したばっかの頃、お前の親父はよく食い物を無駄にした」

 下座から飛んできた箸を自分の箸でつまみ、侍女に預ける。

「民が食えんのなら自分も食わんってな。馬鹿じゃねえの、って思うだろ。確かに馬鹿だったんだよ。けど能無しじゃなかった。何かにつけて体面しか考えてねえお前みたいな小者とは違う」

 子供の頃から、浄次は比較されるとすぐ不満そうな顔をした。
 親父のやっていることが民と同じように見えていたのだろう。
 悪党を成敗するだけなら英雄だ。
 しかしあの時代はかならずしも謀反を起こすものが悪党とは限らなかった。政治に振り回されて苦しんだ末に蜂起した者の多くは農民。その苦しみが痛いほど理解できても、幕府が完全に間違っていても、御上から命じられれば自分達は斬り捨てなければならない。

 ここにいて、浄正がなぜ英雄ではなく外道と呼ばれていたのかがよく分かった。
 外道でなければ何も救えず、何も変えることができなかったのだ。

「お前は馬鹿じゃねえが、親父と違って立派な能無しだ」

 苦虫を噛み潰したような顔で箸を置いた浄次にトドメの湯呑みが飛んでくる。ひゅっと風が吹いたかと思うと、空中で湯呑みが真っ二つに割れた。茶が畳に飛び散る。

「俺に不満があるなら嫌味ではなく意見を言え」
「なら言わせてもらいますが、汁物は丁寧に扱って下さいよ。お前のせいで俺の下の畳が」

 ───ドスン。

「底抜けただろ」

 味噌汁だの茶だのでかなり湿気を吸い込んでいるとは気づいていたが、とうとう地盤沈下した。同じ一畳に座っていた深慈郎が反動で投げ飛ばされ、頭上を越えて浄次の後ろへ落下する。

「大丈夫か、タヌキ君」
「だ、大丈夫です……」
「圭祐。大工に頼んで広間を全面板の間に張り替えてもらえ。早めにな」
「あ、いいですね。そうしましょう御頭」

 今ならウンと言うしかない浄次にきちんと伺いを立てた圭祐は、どこの職人がいいかと隆に相談し始めた。
 斜めに浮き上がった畳を足で押し戻し、皓司の隣に席を移動する。

「斗上さん。こいつをシバく計画はないんですか」

 浄次の反応は無視。

「ある事にはあるのですが、以前お話したように安西さんに来て頂く前は隊士の整理整頓がございまして、ようやく落ち着いたところです」
「ならとっとと次に進みましょう。俺はチビ二人を徹底的にシゴくんで、あんたと殿下はこの坊主を徹底的にぶっ殺す役割分担で」
「俺を巻き込まないで下さいよー。そんな無駄な時間を作るぐらいなら実家の手伝いに行きます」
「無駄な時間。へえ、俺にはチビの面倒を用意しておいて自分はトンズラですか」

 用意したのは皓司であって自分ではないと責任を押し付ける隆に、皓司は「私が復職した際にも殿下にご協力頂くようお願い申し上げましたでしょう」などと姑のような物言いで隆を追い詰める。

「そもそも殿下はご自身の隊が恵まれているのを良い事に何もなさっておりません」
「皓司。告げ口は子供がするものだよ」
「安西さんは私の育ての親ですから。お父様に報告しなければ」

 氷鷺隊は圭祐が中心になってしっかりまとめているから問題が起こらないだけだ。
 彼がいなければ今頃は隆の絶対王政を前に隊士の半数が辞表を出している。

「斗上さんだって何もしとらんでしょう。つべこべ言わずに二人でやって下さい」

 青ざめた浄次と二人の視線がぴたりと合った。

「でもねえ安西さん。幹部が御頭をシバくなんて、老中に知れたら笑い者じゃないですか」
「穂積のおやっさんなら気にしませんよ」
「穂積様は大老へ昇格なさいましたので今の担当は勝呂様という御方です」

 隠密衆の担当老中が替わったのは初耳だ。
 自分の代では聞かなかった名前なのでまだ若いのかもしれない。

「その老中にバレたらまずいんですか。おやっさんが歴代最強だと思ってましたが」
「穂積さんとは違った意味でイヤな人ですよ。会えば分かります」

 と言われても隊長の身分では先方から来てくれない限り謁見できないのだが。
 浄次を鍛え直す為に目を瞑ってくれと『御頭代理』で直談判してみるか。
 そんなことを考えていると皓司に見透かされて止められた。話の通じる相手ではないと。
 話が通じないのならこっちはこっちで好きにやればいいじゃないかと嘆息する。




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