十一. 「風呂ならこの部屋にあるだろ。知らなかったのか?」 稽古が終わったばかりなのに、安西はさっぱりした顔で着替えまで済ませている。 室内を見渡すと広い庭が目に飛び込んできた。一階の北部屋だ。 「知っとるわ。沙霧姉が造った風呂やし」 「さぎりねえ……? ああ二つ前の女隊長か」 貴嶺という名前しか知らなかったらしい安西は納得して風呂場の戸を開ける。白い湯気が天井を伝った。安西の髪から水滴が落ちたのを見て、もう風呂に入ったのかとその早さに驚く。 「おら、入れ」 「えっ……使ってええのん?」 「すぐメシだからあんま長湯すんなよ」 突然の申し出に戸惑ったが、それではと遠慮なく使わせてもらうことにした。 沙霧がいた頃は風呂場が混んでいると時々使わせてくれたが、部屋の主が巴に代わってからは一度もない。巴は夕飯を食べるとすぐ眠っているようだったので、わざわざ貸してくれと頼むのは気が引けたのだ。 髪と身体をいっぺんに洗い、檜のいい匂いがする湯船に軽く浸かって上がる。 安西はとっくに広間へ行っているだろうと思ったら、まだいた。こちらに背を向けて胡坐をかき、手拭いで頭を拭きながら何かしている。 「悠ちゃんはまだ広間に行かへんの?」 「あー、ぼちぼち行く」 ぞんざいな返事。稽古中の鬼畜ぶりとは全然違って拍子抜けした。 礼を言って部屋を出ようとすると、本か何かをぱたんと閉じた安西に呼び止められる。 「冴希。お前さあ、いつもあんな調子なのか」 あんな調子、とはどういう調子だろう。稽古……いや宏幸達と騒いでいたことか。日常すぎて気にも留めなかったが、何か悪いことをしただろうかと首を捻る。 「さっきの? せやけど」 「部屋替えてやる。大体、風呂付きならここは女が使うもんだろ」 溜息とともに立ち上がった安西に、冴希はますます首を傾げた。 「嫌や。この部屋ほとんど日が当たらへんし、冬はごっつう寒いねん。それにうち神職の家系で霊感強いねん、なんやようない気が庭からビシビシ伝わってくるわ」 「あ、やっぱり? 夜中になるとそこの木戸から妙に視線を感じるんだよ」 「悪霊やないねんけどな。妖怪が集まりやすいって沙霧姉が言うてたから開けたらあかんで」 神職なら魔除けの一枚でも作ってよこせと手を伸ばされ、その手を叩き落す。 ───と、素早く手首を掴まれてぎょっとした。 怪力自慢である自分が振り払うことも引っ込めることもできないほど強い力。 端正な外見からは想像しにくいが、稽古でも彼の腕力は底知れない。 「な…何やねん。怖いんか?」 「部屋が嫌なら風呂だけ使え。いちいち俺に断らなくていい」 思いもよらない話に、冴希は呆然と見上げたまま瞬きを繰り返した。 「共同の風呂場は今後一切使用禁止だ」 「えー!? なんでやのん!?」 「あのな……そこで反論するな。女だろ」 手を離した安西が自分の手拭いを頭に被せてくる。程よい力加減でわしわしと髪を拭かれ、そのこなれた手つきに不思議な安心感が湧いた。 女に慣れているような、それとはちょっと違うような。 そういえば子供に慣れている、と圭祐が言っていたのを思い出す。では子供扱いかとムッとしてみたが、『女だろ』という今の発言に矛盾が生じた。 「女やからって馬鹿にすんのも大概にしてや。そんなん意識しとったらここには居てへんわ。男も女も関係あれへんねん、うちは」 「男と女ってのは生まれた時から死ぬまで差別せにゃならねえんだよ」 カチン。 一週間の付き合いとはいえ、今の隠密衆では一番と言えるぐらいまともな頭をしているかと思えばいきなり男尊女卑か。 手拭いを奪い取って投げつけ、今度こそ部屋を出ようとした。背後から溜息が追ってくる。 「男女の格差じゃない、身体的な性差の分別だ」 男が女のように化粧して着飾っても、胸が膨らむわけではなく一物もついたまま。 女が男のように乱暴な言動をしても、胸が平になるわけではなく子宮もついたまま。 一つ屋根の下で生活しても男は男、女は女でしかないのだと言う。同時にそれは人間として最低限意識しなければならない倫理だとも。 「女らしくしろなんて言わねえよ。男勝り上等だ。でも身体は女だろ? ここの奴らがそんなことするとは思わねえが、万が一強姦されたら傷つくのはお前だけだ。んで男はこう言う。『冴希は自分を女だと思ってないから別に平気だろ』ってな」 「アホらし、有り得へんわ。うちに手出すぐらいならお圭ちゃんの方が」 「なら犯してやろうか」 言うなり乱暴な力で畳に押し倒された。 「な……っ」 脚の間に膝が割り込み、両手を押さえつけられ、さらしの結び目に手を掛けられ─── 喧嘩や戦闘ではないこの不可解な状況を前に、普段の力は微塵も出てこなかった。蹴ろうとしても思うように力が入らない。いつもの自分だったら腹を蹴り飛ばすくらい容易いはずなのに。 怖くなんかない。腹が立つだけだ。 怒りが神経を震えさせているだけだ。 女だから傷つく? 男が何もしなければ傷つかない。 女が弱いわけじゃなく、男が馬鹿だからそう見えるだけだ。 同じ人間なのに。 「な? 怖いだろ」 押さえつけられていた力がふっと緩み、覗き込んでくる安西と視線が合った。 変な顔。こういう表情をなんて言うんだったか。 「お前が馬鹿力なのはよく知ってる。けど今その能力が使えたか? 本能が今の状況を拒絶したから身体が麻痺しちまったんだよ」 軽々と上体を起こされ、手拭いで顔をもみくちゃに拭かれる。 自分が泣いていたことに驚き、恥ずかしさのあまり安西の手を振り払った。 「泣かせてごめんな」 こういう表情を、こういう声を、今まで誰かに向けられたことがない。 それは温かいのに悲しくて、優しいのに悔しくて。 たとえ悪ふざけでも腹立たしい。 何もできなかった自分が腹立たしい。 刀も持たず拳も交えず、ただ男という力に敵わない女の性が何より腹立たしい。 「……許さへん」 |
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