十.


 安西が『龍火隊』の隊長に就任して一週間。
 遠征は入らなかったが、それを幸いに班長二人への特訓は日々充実している。本条 司や沙霧のような歴代隊長とはまるで勝手が違い、平隊士達も少し緊張しているようだった。
 隆が言うにはその緊張感こそが安西の狙いらしい。
 もともと弛緩した隊ではないが、優秀さに自惚れるなという事だ。やはり先代に似ている。


 自主鍛錬を終えて顔を洗い、保智は何気なく衛明館の外をぶらついた。早朝の散歩が趣味ではない。自分の心理は大体決まって「ただ何となく」、だ。
 衛明館の門を出ると右に城へ続く上り坂が、左に城門へ続く下り坂が広がる。
 上り坂の階段を少し上がってすぐ脇にある砲台へ近づくと、裏手から人の話し声がした。
 先客がいるとは思わずそっと立ち去ろうとした時、切羽詰ったような声が聞こえて足を止める。

(……祇城か?)

 故郷・長崎の港でよく耳にした中国語。
 耳慣れてはいるが覚えることもできず、熱心に異国語を勉強していた幼馴染によく馬鹿にされたものだ。甲斐は貿易商人になりたかったわけではなく、船旅から帰ってくる実兄に褒められたくて一生懸命だった。

 それはさておき、普段から大きな声を出さない祇城にしては珍しい。
 盗み聞きするつもりはないのだが、気になってつい砲台の影に身を潜めてしまった。
 中国語を理解できる相手といえば甲斐しかいない。だがそれなら館内で済むはずだ。人に聞かれたくない事なら裏庭なり武器庫の近くなり、場所はいくらでもある。
 お互い散歩中にでくわして話しているうちに口論……ないか。祇城は知らないが、あの甲斐が城内をうろつくとは考え難い。その時点で接触不可能。

 相手の声が小さいのか喋っていないのか、聞こえるのはずっと祇城の声だけだった。
 何かを尋ねているような、責めているような。
 そもそも言葉を理解できないならここに隠れているのは無意味で、身動きが取りづらい状況を自ら作ってしまったことに激しく後悔する。


「話はそれだけだ。帰れ」

 ふいに鼓膜を通り抜けた日本語と、初めて聞こえた相手の声。

「勝呂様……!」

 その名に条件反射で砲台から背を離した。おそるおそる身を乗り出すと、寝間着姿の祇城が相手に飛びかかって───飛び……
 いや、これは……抱きついたと表現するべきなのか。
 唇に噛みついたのではなく口付けたと表現するべき、なの、か?

「不想…離」
「離せ」

 勝呂と思しき相手は乱暴な仕草で祇城を突き放し、その場を去っていった。
 ぽつんと立ち尽くした祇城が力なく俯く。
 どうしよう。

「───うわっ!」

 考えるまでもなく、草むらから突如現れた黒い塊に驚いて躍り出てしまった。衛明館に居ついている黒猫だ。こいつも驚いたのか飛び上がって後退し、また草むらに消える。

「あ……お、おはよう祇城」

 視線が痛い。

「その、ごめん。盗み聞きするつもりはなかったんだ……ここに来たらお前がいて」

 言葉が理解できないから聞いていたけど聞いてない、と曖昧に弁解する自分に、祇城は無言無表情のまま近づいてきた。普段から表情に乏しいので怒っているのかも分からない。

「本当にごめん、誰にも言わな……」

 言い終えないうちに祇城が全身で体当たりしてくる。
 いや、これは……抱きつかれたと表現するべきなのか。
 羽交い絞めではなくしがみつかれたと表現するべき、なの、か?

「……どうして」
「え……だ、大丈夫か、祇城?」

 肩が小刻みに震えているのは、もしかしなくても泣いているわけで。
 消え入るような嗚咽がさらに保智の状況を困難なものにした。




「なんぼ言うたら分かるんや! 風呂は女子優先やろ!」
「女の風呂は長ぇんだよ! 独占すんだから最後でいいじゃねーか!」
「ほな一緒に入ればええねん! けったいな貧タマよう隠しとき、黄色ザル!」
「ンだとクソアマ! つか貧タマって何だっつの!」

 朝の稽古組が増えたおかげで朝風呂に入ろうとする隊士が増え、そこに冴希が加わったことで男女共同の風呂場は取り合いになった。
 男だけなら十数人まとめて出入りできるが、女が割り込むと途端に渋滞する。
 というのは冴希にも分かっている。朝も夜も同じだ。
 だから一緒に入るか先に入らせるかどっちか選べと提案しているのに、男どもときたら貧乳は一人で入れだの女は長いから後にしろだの。差別にもほどがある。

「高井の旦那ぁ、面倒だから一緒に入っちまおうぜ。こいつ女じゃねえよ」
「女じゃねーのは分かってっけど一緒は絶対無理。だから俺らが先だ」

 すでに上半身裸の宏幸は汗臭さを漂わせながらふんぞり返って見下ろしてきた。
 皓司や甲斐の背が高いので宏幸はいつも小さく見えるが、五尺と少しの自分に比べたら七寸も差がある。なまじ体格がいいだけに、こうも偉そうに見下ろされると腹が立った。

「なんや、貧タマ見られたら恥ずかしいんか? 心配せえへんでも興味な…痛っ!」

 急に後ろへ引っ張られたかと思うと、宏幸達が視界からみるみる遠ざかっていく。
 誰かに襟を掴まれて引きずられていた。

「ちょっ、何すんねん! 誰や!!」

 首を曲げれば相手の袖がばさばさと顔面を叩いてくる。後ろ歩きというより後ろ走りの格好で袖を払いのけているうちに、ぴたりと足を止めた相手にどこかの一室へ投げ込まれた。




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