五.


 簡素な朝食を済ませ、茶碗を洗っていると格子の向こうに人影が映った。物置になっている狭い裏道にわざわざ身を滑り込ませるとは、表を歩けない訳ありの身か。
 微動だにしない影から目を逸らし、洗い終えた茶碗と箸をざるの上に置く。

「何やらかした、ツバメ」

 影がぴょんと飛び上がった。バレないとでも思っていたのか。

「なんでオレだって分かったの……?」
「元隠密様をナメるなよ。いいから入って来い、そこに戸があるだろ」

 京橋に学習塾を開いて三年余り、色々な生徒がいるがとりわけ元気で悪戯好きで頭の悪いガキがこのツバメだ。二つ上の兄リキも同様。
 勉強しに来ているというより近所の家へ遊びに来ているような感覚なのだろうが、まあそれは好きにすればいい。塾といってもただの暇つぶしで金は取っていないのだ。

 一人で来たらしいツバメは勝手口から入るときょろきょろ辺りを見回した。まだ生徒が来るには早い時間、広間にもひと気はない。

「誰もいない?」
「誰がいたらまずいんだ?」
「……一昨日の人」

 一昨日といえば来客があった。ツバメには何の関係もない、自分の古い友人だ。
 ちょうどリキとツバメが塾に来ていて、客との会話をしっかり盗み聞きしていたのは知っている。客が帰ると二人は顔を見合わせてどこかへ行き、そのまま戻ってこなかった。
 話の内容と今のツバメの様子から察するに、ここへ来た理由は粗方見当つく。

「メシ食え。さっきから腹の虫が鳴ってんぞ」

 炊きたての残りに漬物を入れて握り飯にし、海苔を貼り付けてツバメの口に押し当てた。

「あちっ! 何すんだよ、ゆう」
「食わせてやろうと思って。ほれ、あーんしな」
「自分で食えるってば!」

 ひったくるように奪い取ったツバメはしかしすぐには食べず、くるりと背を向けて広間へ歩いていく。隅に積んである座布団を持ってきて机の前に座った。もともと行儀のいい少年ではない。飯よりも話をしたいという意思の表れだろう。
 意地悪く時間稼ぎして茶を淹れ、ツバメの前に湯飲みと半紙と筆をそろえて置いた。
 怪訝な顔で見返してくる彼の正面に腰を下ろし、自分の湯飲みを一口啜る。

「食ったら勉強するんだろ」
「……勉強しにきたんじゃない」
「するんだろ」
「なんだよ! いつもはなんにも言わないくせにっ」
「いつもは言わないのに、何でだと思う?」

 そう尋ねると、ぶすっとしていたツバメが顔を逸らして俯いた。
 握り飯の海苔が熱でふやけている。せっかくパリパリの美味い海苔をつけてやったのに、これなら湿気た古い海苔でもよかったか。もったいないことをした。

「男同士だ、めんどくせえことは抜きにして単刀直入に話そう」
「ゆうがめんどくさいこと言ったんじゃん」
「そりゃ悪かったな。 んで? 別れの挨拶に来たのか泣き落としに来たのか、どっちだ」

 核心を突くとツバメはぎょっとして顔を上げ、わなわなと唇を震わせる。どうでもいいがさっさと握り飯を片付けて欲しい。感情任せに投げ捨てたらぶん殴ってやろう。

「どっちってゆーか……だって、こないだの人に言ってたじゃん。行くって」

 ふやけた海苔がツバメの指に押されて米の中に埋もれる。

「そしたらさ、守らなきゃいけないじゃん……約束したんだからさ」
「そうだな。一度した約束を守れねえ男はクズだ」

 ほろりと、小さな手から握り飯が崩れ落ちた。

「……じゃあほんとに…ここ出てっちゃうんだ」

 後を追うようにツバメの涙もこぼれ落ち、嗚咽を堪えながら手の中に残った握り飯を平らげる。海苔のついた手で目を擦ると今度は鼻水が出てきて、机の上の半紙で勢いよく鼻をかんだ。
 まったく次から次へと忙しいガキだ。勉強させる隙も与えてくれやしない。

「別にこの世からいなくなるわけじゃないだろ」

 目のまわりについた海苔を拭いてやり、ぼさぼさの頭をひと撫でした。

「それにお前もリキも、一度だって勉強しに来た事あったか? 俺がいようといまいと何も」
「するよ! ちゃんと勉強するから!」
「本当に?」
「本当に! 絶対」
「よし、言ったな。勉強するって約束だぞ」
「……ていうか、ゆうは?」
「俺も約束は守る」

 一度は立ち上がりかけたツバメが気力を失って腰を落とす。約束しても自分の要求は叶わないのだと知ると、無言で机の上の筆を持ってとぼとぼと戸口へ向かった。

「おいこら。ごちそうさまぐらい言え」
「しょっぱい飯ごちそうさま」

 ───可愛くない。
 ツバメは出しっぱなしの暖簾の下で足を止め、物言いたげに振り向いた。
 何を言おうが無駄だと悟ったくせに。
 本当に馬鹿で健気で可愛くない。


「またな。ツバメ」





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