四.


「母上───?」

 独特の艶を含んだ、耳慣れた低い声。
 その持ち主が藤の花のご婦人をそう呼んだ。聞き間違いでも人違いでもない。
 おそるおそる振り返ると、珍しく神妙な顔つきの隊長殿が立っていた。

「皓司。お久しぶりね」
「ご無沙汰しております。母上もお変わりないようで」
「貴方の記憶だといつから変わってないのかしら」

 冗談めかして親しげに笑う母、にこりともせず神妙な顔で頭を下げる息子。

「って……皓司さんのお袋さん!?」

 ───なんという事だ。緊急事態発生だ。
 何が緊急かはさておき、今まさに恐ろしい現実を突きつけられていた。
 二十九歳の皓司の母ということは十五で産んだとして四十四歳、あるいはそれ以上。年齢は抜きにしても、斗上家にはあと二人子供がいる。三人も産んだ女には到底見えないのが恐ろしい。

「こんな朝早くにどうなされたのですか」

 普段なら知り合いに出くわすと必ず紹介してくれる皓司が、どうしたことか何も言わなかった。
 母と呼んだのだから関係ぐらい分かるだろうという意味か。
 否、それはない。面倒を面倒とも思わない器用な人で、分かっていてもあえて行動するのが斗上 皓司という男なのだ。蛇足すると、面倒くさいことはほったらかすのが隆である。

「お父さんの仕事の手伝いで泊まりに来ているんですよ。お天気がいいから散歩をしていたら、そちらの隊士さんが早朝はまだ物騒だからと気を遣って下さって」
「そうですか。確かに物騒ですので宿にお戻りになった方がよろしいかと思います」

 宏幸のことに話題を振ってくれたにも関わらず皓司はさらりと無視し、どこかつっけんどんな物言いで母を追い返そうとしている風だった。
 はて、仲が悪いのだろうか。
 そもそも自分を紹介してくれないのも気になる。名乗りたいわけではなく、意図的に紹介したくない存在だと思われているならさっさと立ち去った方がいい。

「あのー、俺邪魔っスね……先に戻ります」

 くるりと背を向けると、なぜか皓司が襟を掴んで引き止めてきた。

「ご紹介が遅れて申し訳ございません。彼は私の部下で、高井 宏幸と申します」

 本当に器用な人だ。
 あっさり思考を読まれた宏幸は再び女に向き直って挨拶する羽目になる。

「さっきはマジ失礼しました、虎卍隊一班長の高井っス」
「斗上 真夜と申します。息子がお世話になって、頑固者ですから苦労されてますでしょう?」
「や、全然。むしろ皓司さんが俺らに苦労してんじゃねーかと思うぐらいで」

 そうなの?といった視線で息子を見る母の眼差しは、やはり赤の他人である自分へ向けられていたそれとは違った。
 針で心臓を突かれたような痛痒い感覚が胸に広がる。
 急に居心地が悪くなってきた。そわそわしてなんだか落ち着かない。

「あ、皓司さん。俺さっきチンピラ追ってて逃がしちまったんスよ。今から周辺探してきます」
「チンピラ? あれの事ですか」
「へ?」

 指差された方を見ると、路地の入り口で男が伸びきっていた。追っていた奴だ。

「私の顔を見るなり引き返そうとしたのでひとまず捕獲しましたが、宏幸の獲物でしたか。手を出して申し訳ありませんでしたね」
「……いや、ありがとうございます」

 あんな小者も捕まえられないのかと目で言われた気がして、宏幸は首を竦めた。
 どうにも皓司の機嫌が悪い。


「真夜」

 ふいに、数軒先の宿から出てきた男が藤の花のご婦人を呼んだ。

「何処に行ったのかと思えば、放蕩息子の顔が見たくなったか」

 藍色の着流しを隙なく着込んだ背の高い男。見覚えがある。
 年に一度か二度、城内で見かける『瀞舟様』だ。
 遠目にしか見たことはなかったが、粛々とした佇まいが近寄り難そうな印象を受けた。皓司の父だということは知っている。顔もよく似ている。が、間近で見るとますます品のいいおっさんすぎて、自分が乞食に思えてくるほどだった。

「あなた、ちょうどよかったわ。今こちらの可愛い隊士さんを紹介されましてね、皓司の部下なんですって。宏幸さん、これ主人の瀞舟です」

 これ呼ばわりかと笑った瀞舟が宏幸に向けて軽く会釈する。
 真夜に宏幸さんと呼ばれたのもさることながら、瀞舟のような大物に頭を下げられるとは。

「は、初めまして……!高井 宏幸っス! 虎の、いや虎卍隊の一班長でありますっ」
「噂は兼ね兼ね。うちの凌が時々町で世話になっているようで、お礼申し上げる」
「ちょ、あの、世話っつってもただ顔見知りなだけで会ったら話すくらいで、んな大袈裟なもんじゃないっス!」

 さっきまでの居心地の悪さはどこかへすっ飛び、別の意味でここから逃走したい心境だ。
 何せ眉目秀麗な斗上親子による挟み撃ち。乞食を通り越して自分が罠にかかったドブネズミに思えてくるのは自然な反応というか、平然としていられる奴などいないだろう。
 このいたたまれなさにも気づいてくれたのか、無言でいた皓司が両親に頭を下げる。

「では、私どもはこれで失礼致します」

 言うなりさっさと踵を返した息子に、真夜の柔らかい声が後を追った。

「皓司、巴にもよろしく伝えてね。ちゃんと食べなきゃダメよ、って」

 肩越しに軽く頷いただけで、返事も振り向きもしない。伸びているチンピラの襟を掴んで引きずるように運んでいた。
 それより「私ども」と言われたのだから当然自分も行かなければ。

「あ、そんじゃ俺も失礼します。お目にかかれてよかったっス」
「こちらこそ。妻に逢いたければいつでも遊びに来なさい」

 ───なるほど、返事をしにくい両親だ。




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