三.


「待ちやがれ!」

 と言われて待つのは犬だけだが、宏幸は立て板やら桶やら店先に置かれている物を蹴り倒しながら数人の男を追った。
 千草のいる寶屋を出てぶらぶら歩いていたら、来た道の軒先で何事か喚き出したチンピラ。明らかにその女郎屋から出てきた奴らは女がどうの金がどうのと、つまり買った女の質が額に見合ってないから金を返せということらしい。
 そういうやくざ者はどこにでもいる。そういう頭だからやくざ者なのだ。

「おい。シケた真似してんじゃねーよ」

 わざわざ道を引き返してチンピラの前に立ち、目が合った店の者に中へ入るよう顎をしゃくった。

「なんだァ? ワン公なんざお呼びじゃねえ」
「アニキ、アニキ……こいつ赤襟ですぜ。ほら斗上とかっていう野郎の」
「斗上?」

 兄貴と呼ばれたチンピラ太郎が人の頭から爪先までをじろりと見つめてくる。その態度よりも、皓司を呼び捨てされたことにカチンと来た。
 虎卍隊はいわゆる江戸の裏、やくざ町を張っている。謀反の情報取引から不正・悪行の取り締まりまで、お互いに睨み合いつつ微妙な均衡を保っている関係だ。赤襟の隊服を知らないこのチンピラ太郎は下っ端の中の下っ端だろう。

「どうしやす、アニキ」
「どうもこうもねえ。目障りな犬は」

 チンピラ太郎が懐の匕首を抜いた。

「蹴り殺しゃいいんだよ」

 あちこちの女郎屋から女の悲鳴が上がる。用心棒が一人も出てこないのは自分のせいか。隠密がいるならあとは任せた、みたいな暗黙の了解。
 チンピラ太郎の突きを躱して脇に回り、首に腕を引っ掛けて張り倒した。右手を蹴るとあっさり匕首を離す。口のわりに小者だ。股間を踏みつけて一発殴ってやろうと思ったらチンピラ次郎以下が兄貴分をエサに逃げ出してしまった。


 というわけで次郎以下を追っているのだが───どいつもこいつも何気に足が速い。
 最初は仲良く走っていた奴らがとうとう四方へ散り、適当に真ん中の奴を追うことにした。チンピラが米屋の角を曲がる。そこは行き止まりだ。
 しめた、とほくそ笑みながら角を曲がると、なぜかチンピラの代わりに野良猫がいた。
 左右に人が入れるような隙間も戸もなく、忽然と消えた男。まさか妖怪で猫に変身したわけでもあるまい。

「となりゃ……この壁を越えたのか?」

 行き止まりの壁は八尺以上ある。付近には足場になるものもないのに、ヤモリのごとく壁を這って登ったんだろうか。相当運動神経のいいチンピラだ。足を洗って忍びにでもなったらいい。
 仕方なく角まで戻り、助走をつけて右の壁に片足で飛び蹴りする。反動で正面の壁に飛びつき、乗り越えて向こう側の表通りに着地───

「っと、おわ……あーっ!」

 見事にバランスを崩して背中から落ちた。
 何かの柔らかい感触に体が弾み、草の匂いが立ち上がる。藁だ。助かった。

「あらあら。お怪我はありませんか」

 ふと、自分に向けられたらしい女の声に顔を上げる。といっても逆さまに落ちたので頭と足が逆転している状態なのだが、逆さに映っていても美人であるのはすぐ分かった。
 宏幸は慌てて体を反転し、藁の束の上に正座する。

「で、でんでん、ばっちり平気っス!」

 咄嗟とはいえ我ながら阿呆な返事で呆れた。舞い上がりすぎだ。
 覗き込むように身を屈めていた女がふっと微笑する。その美しさといったら……視界に藤の花が咲き乱れたような錯覚。藤色の着物を着ているからか。
 よく見れば十以上は年上のようだが、気品に満ちた華やかな美人には違いない。

「やんちゃさんねえ。こんなにたくさん藁をつけて」

 笑いながらさわさわと髪を撫でて藁を払い落としてくれる。千草に髪を撫でられても恥ずかしいとは思わないのに、今は無性に恥ずかしかった。その違いは自分でもよく分からないが、千草が遊女だからといった差別的な理由でないのは確かだ。
 完璧に理想の女が目の前にいて話しかけてくれているこの幸せをどう表現しよう。
 頬にも汚れが、と袖から出した綺麗な布で優しく拭われ、さすがに女の顔が近すぎてあたふたと後退りした。

「あああああのっ! すんません、手拭い汚しちまって……」
「構いませんよ。汚れを拭く為のものですから」
「そ、そりゃそうっスけど……せっかくの綺麗な布が」
「ではこう言いましょうか。可愛いお顔を拭かせてもらえて、おばさん嬉しいわ」


 ───なんという事だ。非常事態発生だ。
 自分でおばさんなどと言っているが、たとえば今すぐ後ろを歩いている赤ん坊を背負った若い女より断然美人でしとやかで品があって腰も細く声も柔らかくて好みだ。
 誰も好みは聞いていないが、とにかく「おばさん」と表現するには全身に激しい語弊がある。
 おばちゃんでもおねえさんでもなく……ご婦人。ご婦人と呼ぶのが相応しい。

「あーえと、ご婦人はこんな朝っぱらからお出掛けっスか? この時間はまだチンピラがうろついてるんで、そのーよかったら用心棒ってか護衛ってか、お礼に行き先までお送りしますけど」

 言ってから、まるでナンパじゃないかと軽く凹んだ。
 もちろんチンピラがうろついているのは本当だしお礼をしたいのも本当だ。しかし変な誤解を招いて嫌われたらどうしよう。

(つか嫌われたらって、通りすがりの女に何言ってんだ俺……)

 「どうも」で終わる程度のことであり、知り合いになるとかそういう場面ではないのだ。なのに勢いでナンパもどきの発言をしてしまい、これが相棒だったらしつこく押すのだろうが自分は女にしつこいのはガラではない。
 ちらっと窺うと、藤の花のご婦人は少し驚いたような表情で見上げていた。

「あ、すんません……知らねー奴にいきなり用心棒とか言われても迷惑っスよね」
「いいえ。やんちゃな可愛い子だと思ったらしっかり男の人だったのねえ」

 そしてまたふふっと微笑う。この笑顔が最高に綺麗でつい見惚れた。

「でも主人がいるので大丈夫です。ありがとう」

 ───主人。
 つまり既婚で、旦那がいるわけで。もしかしたら子供もいるわけで。

(あ、やべ……地面に突っ伏してえ)

 たった一言に底知れぬ敗北感を味わいつつ、どうせならその主人とやらを見てみたい気もした。こんないい女を嫁にできる男とはどんな奴なのか。大名?旗本?役人?
 身なりからしてそこらの長屋に住んでいる女ではない。

(きっと旦那もいい男なんだろーな……クズだったらぶっ飛ばしちまうかも)

 ダメな男にデキた嫁、が江戸の相場だ。
 しかし江戸の住人とはどこか雰囲気が違う感じがする。田舎くさいわけでもなく、強いていうなら相模あたりに住んでいそうな。

「母上───?」

 そう、母上なのだ。

「え……?」

 突然割り込んできた男の声に、宏幸の頭が自動停止した。




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