ゆ き
十四、
◆隆──1700年・季春◆
美濃で二人が見つかったのは、御頭が指令を下してから一ヶ月も経たない頃だった。
縄をかけられて江戸入りした大山ちか子と大山篤士。二人の旧姓が『下谷』だと言う事は、大山家の誰も知らなかった。当人達も越後の下谷など知らないと言い張り、だがその主張は隠密衆の拷問の末にあっさりと裏返された。
御頭が読んでいた事と何一つ変わらない事実が、明らかにされたのだ。
二人は今、江戸町の奉行所に送られている。
下谷にはお前から話しておけ、と御頭に言われ、隊長としての自立を後押しされた。
下谷はここ一ヶ月、木の下にいる事が多かった。
昼も夜も木の下で膝を抱え、言い寄る隊士たちに罵倒を浴びせて追い返している。
下谷の本心が確実に揺らいでいるのだろうと思った。
「夜の花見も風情があるなあ」
そっと歩み寄ると、下谷は腫らした目で睨みつけてくる。
「あんたも僕を買いに来たのかよ。桜の下でやりたいってのか」
「桜の下で、下谷と話がしたいんだよ」
あまり近づかず、少し離れたところで桜の木に寄りかかった。
「家族を殺したのは、ちか子と篤士だったんだね」
名前を出すと、下谷がびくっと肩を跳ね上げて凝視してくる。
動揺に混じって、泣き出しそうな顔をしていた。
「ひと月前に御頭が二人を探せと諸藩の諜報に言い渡していたんだよ。昨日見つかった」
「……みつ、かった……?」
「見つかったよ。諜報はそういう仕事が得意だからね」
「……それで……」
「全部吐いた。吐かせたのはこの衛明館にいる御頭達だ」
下谷の目から、今夜何度目かの涙が零れ落ちる。
赤い唇をかすかに震わせ、何かを言おうとしていた。
喉から嗚咽のような声が途切れ途切れに漏れ出す。
「ちゃんと聞き出したよ。下谷の無実を、御頭も隊長達もちゃんと聞いた。だからもう自分を欺いたりしなくていいんだよ」
眉を寄せていた綺麗な顔が白い手に覆われた。
小さい子供が泣きじゃくるような、無防備な姿だった。
わざと必要以上の色香を放つでもなく、無理して突っ掛かる事も忘れている。
ずっと泣きたかったのだろう。
下谷の本心がようやく形となって表れた。
「ちか子さんが……二階に行こ、って……お囃子が見えるからって……っ」
「下谷は妾の女が悪い人だとは思ってなかったんだね」
「……戻ったら、篤士兄さんが……みんな……血で……血がね……」
「怖かっただろうね」
「怖かった……ど、して……って聞いたら、ぼくが、やったことに、なる……て」
「お兄さんに家督が譲られたからだろう? その次はきみに家督が渡るはずだった」
「うん……うんっ……」
何度も頷いて懸命に話そうとする下谷の姿は、十三歳当時の姿に見えた。
痛ましい思い出を掘り返し、それでも無実を伝えようとしている。
役人は金に目が眩んでこの姿が見えなかったのだ。
大人の男を毛嫌いしていた下谷の言動には、権力を誇示する者への拒絶があった。
「ちか子は役人に金を渡していたんだよ。下谷には厳しい話だけど、下谷家の財産の一部をね。無実のきみが投獄されたのにはそういう背景があった。役人は一度も話さなかっただろう」
下谷は頷いたが、金を回していたのは知っていたらしい。
「なんとなく、そうだったのかって、知ってた……。だから……お金が嫌いだった……。人を騙すお金が、嫌いだったんです……」
「そうだね」
「……牢獄で、良い子になれ、って……ひどい事、されて……」
牢獄に下谷のような子供が入れば、それは免れなかっただろう。江戸なら監視が厳しいが、地方の牢獄はそれこそ家畜の詰所のようで、役人が口裏を合わせれば囚人を虐げるのは簡単だ。
下谷が身体を売るようになったのは、役人に仕込まれたそれしか自分に何もないという絶望からだったのだ。
「毎晩、毎晩ひどい辱めを受けて……そのうち、自分で自分が分からなくなって……」
下谷は体を縮め、過去の役人から身を守るように両腕で自分を庇った。
「助けて、って……誰も聞いてくれなかった……誰も、信じてくれなかった、から……このまま、自分が壊れてしまえば、辛いことなんかなくなるんじゃないかって……思っ……」
それ以上は喋らせる意味もなかった。
下谷の頭に手を触れると、救いのない絶望に耐え忍んできた悲痛な顔が持ち上がり、小さな体が飛びついてくる。
「もう、こんな……こんなの、もういやだ……っ!」
「もう終わりだ。これからはそんな事する必要はない」
「たすけて……たすけて……っ」
「ここでは誰も下谷を虐げたりしないよ。みんなをちゃんと見れば分かる。一人一人違うけど、下谷の事を気にかけてくれてるよ」
腰にしがみついてくる手がぎゅっと背中を掴んで震えていた。
華奢な体をそっと腕で覆ってやると、一層力強く身を預けて号泣する。
謂れのない恨みを受け、罪を被せられ、役人や男達に玩ばれた子供の小さな身体。
自分自身を破滅に追い込む事で、それらの苦痛から逃れようとしていた小さな命。
三年も絶望を彷徨い、今ようやく解放されたのだ。
「……ごめ、なさい……」
「自分の身体に謝ろうね」
「…………はい」
本当は純粋で優しい子供だった。
それが分かると、自分も救われたような思いでその頭を撫で続ける。家族殺しの冤罪と、そして自分自身を騙してきた冤罪。二つの冤罪を背負っていた下谷は、嗚咽と涙で無実を晴らした。
ふと衛明館を見上げると、二階の窓を開けてこちらを見下ろしていた司と目が合う。
手摺りに腕を乗せ、最初からそこに座っていたらしい司は、月明かりに照らされた顔で静かに微笑した。手にした盃を掲げて一息に飲み干し、部屋の奥へ消えていく。
「今夜は月が綺麗だ。町をぶらぶら歩いてお花見でもしようか」
泣き止むのを見計らって言うと、気恥ずかしそうに体を離した下谷は目を擦って笑う。慎ましやかで、雪のように美しい笑顔だった。間違いなく三与里で生まれた子供だ。
「そしたら、寄りたいところがあるんですけど、いいですか?」
「お店かい? もうやってないんじゃないかなあ」
「夜になると店を開けるんです。その……商売をしていた時に、たまにお世話になってた薬屋なんですけど」
下谷は長い睫を少し伏せて頬に残っている涙を拭う。
穏やかな眼差しで夜桜を見上げたその頬に、また一筋、淡い桜色の雫が伝った。
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