ゆ き


十三、


 ◆圭祐──1700年・上春◆


 壊れている。
 自分の中の何かが壊れっぱなしだった。
 隠密衆に入ってからというもの、何度も人を斬っている。
 殺した奴らに罪悪感なんかこれっぽっちもありはしない。
 それなのに、つい今しがた人が斬られるのを目の当たりにした途端、何かが壊れた。

 いや、もっと前から壊れ始めていたのだ。
 寒河江が自分にお節介を焼き始めた時から。
 保護者を気取った善人面がむかついて仕方がない。
 むかついてむかついて、いっそ一思いに刀を突き立ててやりたいのに、できなかった。
 できない理由は自分でも分からない。
 殺すとまではいかないにしても、傷一つくらいは負わせられるはずだ。
 なぜ刀を向けられなかったんだろう。
 さっきから寒河江の憎たらしい顔が頭から離れなかった。


 衛明館の裏にある物置小屋の前で膝を抱え、泣きたくもないのに溢れてくる涙に腹が立つ。
 梅の花がぽろぽろと足元に落ちてきた。

「生梅の種には毒があるってのを知ってますかい」

 急に空から声がしたので驚いて顔を上げると、同期の男と目が合った。
 梅の枝を軽く揺すって花びらを落としてくる。

「なんだ、あんたもここにいたの」

 泣いている所を黙って見られていたかと思うと、無性に腹が立つ。顔を上げて睨みつけてやったが、上杉とかいう男は梅の木の間に座って花を手折っていた。まるで梅の木に絡まったまま寝ているような体勢だ。
 変な男だ、と思う。
 だが同期だからといって口を利く義理はなく、問いには答えてやらなかった。
 すると何もなかったかのようにこちらもあっさりと無視され、やはり腹が立つ。

「あんた、そこで何してるわけ?」
「見ての通り、梅の木に絡まってるだけですぜ。何してると思ったんで?」
「別に。前から思ってたんだけど、あんたって変人だよね」
「好きに言ってくれて構いませんや」

 上杉は花の間から空を見上げて笑い、手折った梅の花をぱくっと食ってしまった。
 草食動物みたいな男だ。
 他人がそこにいることに無関心で、自分だけの世界に入ってそうな感じがする。

「あんたの相方の麻績柴だけど。さっき自分の隊士を殺したよ」
「へえ、そりゃ見たかった」
「そのうちあんたも殺されるかもね」
「どうしてですかい? オレがシバさんの逆鱗に触れるような事しなけりゃ、そんなこた起こりゃしませんや」
「あいつは気に食わなかったら誰でも斬るよ。自分が君主みたいな顔してさ」
「ちっとばかし誤解じゃないですかね。気に食わないってだけで損得もなしに斬るような人には見えませんぜ。斬るにはそれなりの理由があるんでしょうや」
「それなりの理由って何」
「シバさんが隊士を斬った原因てのは何なんですかい?」
「……ゆうべ僕を買ったヤツが金をけちったから文句言ったら、そいつが引っぱたいてきたんだよ。そしたら麻績柴がいきなりそいつを斬った。それだけ」

 なんでこいつにこんな話をしなければならないんだろう。
 味方でも敵でもないようなこの男に、うっかり喋っていた自分に嫌気が差す。
 上杉は一度も性的な目を寄越さなかった。
 誘う気もなかったが、それにしても変な男だという印象がつきまとう。
 相変わらず木に絡まったように座っている上杉は、また花をぷちっと毟って食べた。


「あんたに手を上げたから、斬ったんじゃないんですかね」

 妙な間を置いて上杉の声が降ってきた。
 見上げると膝の上に鶯が止まっている。

「ホトケさんは金をちょろまかして汚い事したんでしょう。そういうのはシバさんの嫌がる所だと思いますぜ。挙句にそれを棚上げして引っ叩いたってんですから、逆鱗に触れるには十分だ」
「僕のことじゃんか。なんで麻績柴が手を出してくるわけ」
「そりゃ本人に聞けばいいってもんです。オレも付き合いが浅いから知りませんや」

 付き合いが浅いというわりには、よく性格を知っているような口ぶりで喋る。

 もうどうでもよかった。
 こいつらと馴れ合うなんてまっぴらだ。
 そう思っていると、急に寒河江の憎たらしい顔が浮かんできた。
 なんでよりにもよって寒河江なんだろう。
 正義感を押し付けてくる性格が気に食わない。
 ぼけっとしてるかと思えばキレ者の一面を覗かせ、揺るぎない眼差しが向けられる。
 隠密衆なんかに入らなければよかった。
 暗殺業でもすればよかったのだ。

 今すぐ辞めようかと本気で考えていると、梅の木からにょきっと脚が出てきて上杉が降りてくる。枝に絡まるような体勢だったのに、造作もなくするすると抜け出していた。
 そして、また自分以外はそこにいないかのように歩き出す。
 膝に止まっていた鶯は肩に乗っかっていた。

「あんたはなんで隠密衆に入ったの」

 無視されたような態度がむかついて、つい声をかけてしまう。
 本当に自分の何かが壊れていた。
 上杉は足を止めて肩の鶯ごと振り返り、懐から変な眼鏡を取り出して顔に嵌める。
 見たこともない丸い眼鏡だった。南蛮物だろうか。

「あんたはどうして隠密衆に入ったんですかい」
「僕が聞いてるんだよっ」
「人の入隊理由に興味があるんですかい? それで自分の価値が見出せるとでも?」

 カチンと来る。
 丸眼鏡の奥から眠そうな目が見ていた。半目に閉じられた瞼の下から、掴み難い視線が送られてくる。冷たくもなく、温かくもない。誰を見ているのか分からない視線だった。

「入隊の理由なんて、入っちまえばなんの意味もありませんや。思ったより楽しい職場で」
「人殺しが楽しいんだ? あんたってそんな性格に見えないのにね」
「人殺しが楽しいなんて言ってやしません。職場が楽しいと言ったんで」
「同じことだろ。人殺し集団と馴れ合うのが楽しいってわけじゃんか」
「隠密衆が人を殺すのには、いつだって理由がありますぜ。理由がなければただの殺人だ。そうなりゃ徳川の膝元なんかにゃいられやしませんでしょう。灯台元暗し、ですかい」

 上杉は肩で鳴いた鶯を手に乗せ、宙に放った。
 鶯が飛んでいく。
 冬の空はすっかり春になっていた。

「……人を殺すのに、どんな理由があったら無罪にしてもらえるの。権力とか金でしか無罪になる方法なんてない」

 自分の膝をきつく抱え、胸が苦しくなってきて涙がこぼれた。
 大人は権力と金にしか信用をおかない生き物だ。
 隠密衆も徳川の権力を齧って、趣味で人を殺して、それで報酬をもらってる。
 汚い犬の集まりじゃないか。
 徳川政権がなくなれば、罪人扱いされて町中を晒し首で引きずり回されるだけだ。
 また、地獄のような牢屋に入れられるかもしれない。
 牢屋。
 役人。
 権力と金だけがすべての、嘘っぱちの大人の世界。


「あんたは無罪なんですかい」

 気付くと、上杉が目の前に立っていた。丸眼鏡が見下ろしてくる。

「何が……無罪だって?」
「無実の殺人罪を受けたみたいな言い方だったもんで。冤罪でも被ったんですかい」
「勝手に推測しないでくれる。隠密衆のこと聞いてただけだよ」
「そうは聞こえやしませんでしたけどね。ま、どうでもいい事で」

 上杉は枝を揺らして梅の花を落としてきた。
 ひらひらと花びらが降りかかってくる。

「ここは面白いですぜ。嘘をつくと徹底的に叩かれる。正直になると馬鹿にされる。やってるこた確かに汚い職業ですが、人間性のある職場には変わりゃしませんや」




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