ゆ き


十一、


 ◆隆──1699年・晩冬◆


 越後の遠征から、早四ヶ月が過ぎた。
 年が明け、江戸の冬も本格的になっている。
 三与里はすでに吹雪に覆われているかもしれない。三与里の老婆から聞いた一連の事件を調べる気にはなれなかった。ただ下谷を見守り、観察してはその素行に痛ましいものを感じ、為す術なくまた見守る。
 司には三与里の話をしておいたが、話し合う暇もなく煙狼隊が遠征に入ってしまった。
 ひと月で戻ってきたものの、すぐに四国から大掛かりな謀反の火の手が上がる。
 氷鷺隊は万一に備えて江戸に待機と言われ、御頭は紅蓮隊と煙狼隊を率いて大詰めに向かった。
 衛明館に残って江戸の冬を見送るのは、自分の隊の者のみだ。

「お、やっと初雪じゃないですか。寒河江隊長、雪が降ってきましたよ」

 朝食後の広間でくつろいでいると、隊士の一人が障子を開け放って外を指差した。
 ぼんやりと茶を啜っていたので腰を上げるまでに時間がかかる。

「ほんとだねえ。越後は吹雪かな……」
「近頃あまりお元気じゃありませんね。四月前の遠征でお身体でも壊されたんですか? もしや、それで今回の大詰めはうちの隊が待機という事に?」
「待機はたまたまじゃないのかな。俺は元気だしね。心配してくれてありがとう」

 自分の隊にはいい人間が揃ったな、とひそかに笑った。
 これから何年氷鷺隊を率いていくのかは分からない。
 できれば司のように、いつまでも変わらぬ隊士達に支えられたいと願った。

「下谷はどこへ行ったんだい?」
「分かりません。今日は寒いから町には行ってないと思いますが」

 日中は部屋にいないと学んだので、衛明館の周辺を探してみようかと立ち上がった。
 寒そうに障子を閉めた隊士が、あの、と小声で引き止めてくる。

「下谷班長の事で……。私が口を出すのも恐縮ですが、少々やりにくいかと」

 彼は保智の班の部下だった。
 違う班とはいえ、隊はひとつだ。

「やりにくいのは俺も同じ気持ちだよ。ただ、一年くらいは様子を見なければ分からない難しい人間もいるからね。保智は一日で分かったけど」
「一年の間に隊が物別れしてしまう気がしまして。思い過ごしとは言い難いですし」
「物別れ、か。そんなに氷鷺隊は結束が緩いのかな」
「いえ、けしてそういう事では……」
「一人一人が隊と仲間を気遣ってくれるなら、それで十分だと俺は思うよ」

 彼もこの先ずっと自分の隊に必要な人間だと、叩いた肩に念を込めた。

「差し出がましい事を言って申し訳ありませんでした」
「いいんだよ。これからもよろしくね」


 広間を出ると、廊下はしんとしていた。衛明館に住む人間の半数以上がいないのだ。
 薄暗い西廊下を歩くと、狭い庭に面した形ばかりの縁側に下谷が座っていた。細い肩が厚手の羽織に覆われている。

「初雪だねえ。積もったらみんなで雪合戦でもしようか」

 隣に腰掛けると、わざとなのか、すいっと腰をずらして距離を置かれた。
 この四ヶ月間ほとんどそうして避けられている。
 遠征前に口論したのが原因らしかった。

「雪なんか嫌いだよ。寒いし冷たいし足は霜焼になるし。あーやだやだ」
「三年前を思い出すからかい?」

 残酷な事を言っているのは承知の上だった。
 下谷を傷つけるつもりはないが、そうでもしなければ一生腹を割ってもらえない。
 癇癪を起こすか、本心を曝け出してくれるか。

「何なんだよあんた。遠征の時に休暇出したのは、僕のことを調べる為だったわけ? 根堀り葉堀り聞き出してきたってことか。で、それがどーしたんだよ!」

 立ち上がるなりものすごい剣幕で怒り出し、噛み付かんばかりに見下ろしてきた。
 やはり、その目には傷ついたような色が浮かんでいる。

「実はあの時、三与里に行ってきた。下谷の家の前で村の人からお話を伺ったよ」
「余計なお世話なんだよ! 正義ぶって保護者ヅラして、イイコになりなさいとか説教かましたいのか、え!? ふざけんな!」
「泣きそうな顔、してるな。見てて痛ましいくらいだ」
「あんたの顔も見てて殺したくなるくらいうざいんだよ!」
「殺したいと思うなら刀を抜けばいい。隊長に刀を向けたらいけないなんて掟はない」

 鞘の中を滑り上がる刃の音がした。
 柄尻に白い組紐が一周だけ巻かれている。
 雪のように白い手がその上を握り締め、刃先を向けてきた。
 切っ先が小刻みに震えている。
 刃を辿って下谷の顔を見つめると、眉を寄せて苦しそうな顔があった。

「…………っ」

 下谷の体が床に崩れ落ち、刀を握ったまま大粒の涙を落とす。
 押し殺した嗚咽が、小さな身に痛ましさを植え付けた。
 三与里に行ったと告げた事は、少なからず下谷の中に影響を与えている。

「我慢する必要はないんだよ、ここではね。衛明館は一つの家だ。帰る家を持っている者もそうでない者も、皆ここを今の拠り所にしている。誰も自分を欺いたりはしてない」
「なんで僕までそうならなきゃいけないんだよ! どう生きようと勝手じゃないか!」
「どんな生活をしようとそれは自由だ。でもね、同じ釜の飯を食って、同じ空気を吸って、同じ時間を共有している。そこに生まれるものが何か分かるかい」
「知るもんか! 知りたくもねえよ!」
「信頼関係だよ」

 あふれ出てくる自我。
 いい兆候だ。

「たとえ偽りの家族でも、信頼関係がここにはある。中には下谷とそりの合わない人間もいるだろうし、下谷と気の合う人間もいるだろう。普通の会話をして、普通じゃない仕事をして、それでもみんな一つの家族なんだよ」
「何が信頼関係だよ、お笑い種だ! こっちがちょっと色目使ってやりゃ欲丸出しで身体に食いついてきやがるくせに!」
「それは下谷が自分を欺いてるからだ。お前のせいだなんて言うつもりは毛頭ない。過去にどんな惨い事があったかは俺には分からないけど、ここに住む者にもいろいろ事情がある。でも過去を生きてる人間はいないよ」
「ほっとけよ阿呆! 善人ヅラ! 綺麗事ばっか抜かしやがる詐欺師!」

 下谷は刀を置いたまま廊下を走って行った。
 厚手の羽織が縁側から落ちかかっている。
 それを拾い、床に染み込んだいくつもの涙の跡を見つめた。


 下谷家の人間が殺された日、妾とその子供、そして下谷本人との間に何が起こったのか。
 老婆は廃屋に懇願するように泣き崩れたあと、何も喋ってはくれなかった。
 老婆の言った事を事実として考えれば下谷が自分の家族を殺した事になる。しかし村の者は、家族を惨殺した少年の事をむしろ気にかけて案じていた。曲がりなりにも村ひとつを支える長の家だ。長が殺されたとあれば、犯人がだれであろうと非難するはずだ。
 仮に下谷が犯人とされたのなら、あの子は役人に捕まったということになる。

 どこか不自然だった。
 妾の女と十五歳の子供がいる前で、十三歳の子供が両親と兄を殺す理由がない。
 そもそも、なぜ両親と兄だけが殺されなければならなかったのか。
 妾と義兄も怪我をしていたという事は、二人も殺されるところだったのだろう。
 十三歳の下谷が一家を殺す、その理由が分からなかった。

 だがあと少し、あともうひと押しで、下谷を覆い尽くす氷が剥がれると踏んでいる。
 雪が溶け出せば、春は必ず訪れるのだ。




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