ゆ き
九、
◆隆──1699年・季秋ノ弐◆
「綺麗な子だったねぇ……村の女の子でも、あんなに綺麗な子はおらなんだよ」
しゃがみ込んで手を合わせた老婆が、独り言のように呟いた。
誰の事を言っているのかは分からなかったが、下谷の事だろうか。
齢十六という年頃は身体の転換期でもある。下谷は、男が転換期を迎える前の中性的な美貌を備えていた。中性的と一括りに言っても並みの美貌ではない。ともすれば成熟した女より艶めかしい色香を漂わせているのだ。隊士達が金を払ってまで抱きたいと思うのは当然のように思えた。
しかし、当然のように思ってはならない何かがある。
自分にはそう感じられるからこそ、下谷の過去を調べにきたのだ。
「奥さんも旦那様も、ご長男も綺麗な人だった。この三与里を支えてきた者にふさわしいご一族でしてねぇ……それがあんなことになるなんて、村のご先祖様はどういうおつもりだったのやら……」
口を挟むべきではない。
老婆から語られる下谷家の過去は、無言で聞かなければならないと思った。
「旦那様の些細な過ちさえなけりゃ、この村は今でも若衆がいて活気づいていたことだろうよ」
下谷の父が犯した些細な過ちとは何なのか。
紅葉が一片、顔の前をはらりと舞い散っていく。
「お若いの、結婚はされているのかい」
老婆が突然話しかけてきた。
一歩すら動けず、廃屋の前に立ち尽くしたままようやく答える。
「いいえ……まだですが」
「好いとる女は?」
「おります」
「その女がどこの女より器量良しで出来た娘でも、他の女を抱きたいと思うかい」
まるで試されているような問いかけだった。核心が見えてこない。
だが、自分には答えられるだけの確固たる信念がある。
「私には勿体無いほどの女性です。今も昔も、彼女以外を想う事はありません」
「本当に、そう言い切れるかい」
「愛している女を傷つけるぐらいなら、我が身を切り裂く方を選びます」
そう言うと、老婆は深い溜息をついて立ち上がった。
廃屋の前に地から浮き出た樹木の太い根があり、そこに腰掛けて廃れた家屋を眺める。
老人と若い女が見せたものと同じ、悔恨の眼差しをしていた。
「旦那様はねぇ……一度所用で村を出た時、他所の女を抱いたんだよ。本当はいい御人だった。あの女が騙して誘惑しただけなのさ」
この村では他所の女を抱く事が掟破りなのだろうか。村の女だけを娶り、濃い血を代々継いでいく習わしがある村も存在する。だが老婆が最初に問うたように、妻以外の女を抱くという行為の事を非難しているのだろう。
黙っていると、老婆は悔恨の表情にかすかな憤りを浮かべ、膝に落ちてきた紅葉をつまんだ。
「その女は近親者が一人もおらなんで、旦那様が不憫に思って一年後にこの村へ連れてきた。それが、三与里の悪夢の始まりだった……」
紅葉を力なく指先で回し、風の中に手を投じる。
風に攫われた紅葉はひらひらと蝶のように舞い上がって、廃屋の庭に落ちた。
「奥さんはこの村で生まれた人でねぇ。とても器量良しで愛想もよくて、ほんに出来た女性だったのさ。慎ましい振る舞いをしていても、きちんと自分の意思を持っている人だったよ。旦那様が、連れてきた女を妾にしてこの家に住まわせたいと言うと、二つ返事で微笑まれたらしい。奥さんは分かっていたんだよ、旦那様が心優しい人だってことを……。女はすでに旦那様の子供を腕に抱えていてね、本当なら夫が浮気して作った子供なんぞ嫌なもんだろうに、女がいない時は奥さんがその子供を面倒見て愛情を注いでやってたもんさ」
老婆は廃屋を懐かしむように目を細め、目尻に浮かんだ涙を着物の袖で拭った。
「それから二年して、旦那様と奥さんの間に子供が生まれたんだよ。二人目の子供でねぇ、これがまた大層奥さんに似て綺麗な顔立ちの子だった。ご長男はその時八歳で、妾腹の弟も可愛がっていたけど、自分の母親が産んだ本当の弟も可愛がってらっしゃったよ。数年はその他所者の女も含めて仲睦まじい家族だったんだけどねぇ……」
日が西へ傾き始めていた。
二つの長い影が廃屋へ伸び、風が吹くたびに紅葉が影の上を通り過ぎる。
今、自分は下谷の過去を廃屋に照らし合わせて聞いていた。
この静かな里に降りかかった悪夢が自分に暴かれようとしているのだ。
禍々しいとさえ感じるこの廃屋の前で。
少しだけ、この大きな家屋が廃屋になるまでの結末を聞きたくないと思った。
しかし聞かねばならない。
遠征の前に下谷が見せた、癇癪の裏側にあったものを理解する為だ。
苦しんでいるように見えた。
苦しいのにどうにもならなくて、己の身を掻き毟っているように見えたのだ。
このままでは、いつかあの子が死んでしまう。
自分を欺き、自分の身体を傷つけ、内から爆発してしまうのではないか。
漠然とそんな思いがしてきた。
老婆は俯いて溜息をつき、この廃屋の過去をまた訥々と語り始める。
「それから十年あまり経った頃、ご長男が労咳にかかってしまってね。旦那様はもうお歳を召されていたし、ゆくゆくは一族の長として三与里を守る為に、ご長男に家督を継がせるはずだった。そんな時に不治の病に冒されたものだから、それはもう大変なご落胆でしたよ……。本妻の下の子はまだ十歳だったし、妾の子は十二歳。下の子が大人になるまでは生きられないと分かってらしたから、その後二年近くもご老体を押して三与里の長を務めてらっしゃったものさ」
三与里は、下谷家が代々守り続けてきた村のようだった。
土地を持っているという事は、この廃屋の大きさからも伺えるようにかなり裕福な家だ。
村の長が決まれば、土地も一族の財産もすべてその者に明け渡される。
元服もしていない子供には当然守りきれる財産ではない。
「……あれは、下の子が十三歳になったばかりの頃だった……」
老婆の声が掠れて風にかき消される。息を詰めて嗚咽を漏らし、着物の袖で顔を覆って泣き出した。村の者には痛ましい事が起こったのだろうと推測する。
そして、下谷家にとっても痛ましく、惨たらしい事件が起こったのだ。
老婆は小さな身体を丸めて必死に話そうとしていた。
枯れ枝を踏まないように老婆へ近づき、絹地の余りで作った手拭いを懐から出して差し出す。受け取ってくれたのを見届けてから、自分も木の根に腰を下ろした。
そうして廃屋を下から見上げていると、燕の巣すら庇の下にない事が分かる。
燕は人間の生活が感じられない場所に巣を作らない。
どうしてかは知らないが、そういった事をどこかから聞いてきて話してくれる女を思った。
簪や香袋を作って店を開いている、最愛の女。
彼女が今ここにいたら、燕の巣がないと言って廃屋の中へ踏み込んでいっただろう。
「思い出したら胸が詰まってしまってねぇ……。ええ、今から三年前のことでしたよ。旦那様が御身体を壊されてね。ついに家督を受け渡す日が……三与里を守る長の代が変わる時がきた……」
廃屋の戸が一斉にガタガタと鳴り出す。
強い風に煽られただけだったが、それはこの家で起こった事件の怨念が揺らしたように思えた。立てかかっていた木戸が、土埃を巻き上げて奥に倒れる。家の中に風が吸い込まれていき、重苦しい空気を背負って外に吐き出されてきた。
───何かが自分のそばにいる。
気のせいではない。今たしかに、人の手が頬に触れた感触があった。
空気は重苦しさを増していたが、頬に触れた手は温かく、慈愛に満ちた手のようだった。
ス、と手の感触が離れていく。
一つ、二つ、三つ。
三人の手だ。
大きさの違う、だがどの手も慈愛に満ちている温かさ。
誰の手だろう、と思うまでもなかった。
三与里を守っていた人間の手だ。
悪質な因縁を孕んで影を落とす廃屋の庭に、いつの間にか蜻蛉が群がっていた。
夕焼けに包まれた屋根の向こうに月が昇り始めている。
細く儚げな、雪のように白い三日月だった。
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