ゆ き


八、


 ◆隆──1699年・季秋◆


 越後の遠征は思っていたほど難儀ではなく、予定より二日も早く片付いた。
 通常は遠征が終われば早々に江戸へ引き上げるのだが、越後の土地で二日の休暇を隊士達に与え、自分は下谷の事を調べようと足を伸ばしてみる。
 越後の地はとにかく広かった。
 これだけの地方ともなると、地図を見ても土地鑑が掴めない。徳川の根城とはいえ、町が詰め込まれた江戸とは雲泥の差だ。


「すみません。ここはミヨサト、という村でしょうか?」

 標識がなく、延々と田畑や山林、質素な家並みが続く土地では、すれ違う人々が頼りだった。尋ねたのはこれで四度目になる。
 鍬を持って腰を上げた老人は耳が遠いらしく、片手を耳に当てて聞き返してきた。

「なんじゃてー?」
「ミヨサトという村はこちらでしょうか」
「三与里なら、この道ずぅーっと行ったところにある小さな村じゃ」

 鍬で道の先を示され、その方角に広がる何もない田畑の風景が秋の色に染まっている。

「あんたどっから来たんだね。身なりからしてエエ所のお方に見えるが」

 老人が手拭いで顔を拭きながら畑の間を歩いてきた。

「江戸で呉服屋を営んでいます。まだまだ家業は父の商売ですが」

 老人は上から下まで無遠慮に眺めると、腰の刀に僅かばかり目を留めて逸らした。斬り合いなどには縁のない土地なのだろう。刀など見るのも嫌だと言わんばかりの顔だった。

「三与里はいま女しかおらんよ。男はわしと同じ老いぼればかりだ。お役人にとっ捕まるような悪行をする人間は一人もおらん」
「役人じゃないですよ。知人の故郷なので、ご実家に伺おうと思って来たんです」
「その知人の姓は?」
「下谷、と申します」

 途端、老人は鍬を持ったまま黙った。
 姓を言ってはいけなかったのかもしれない。

「ご存知ですか?」
「……知っとるが……。しかし、その知人というのはもしや……」

 言いかけて、老人はやはり黙って表情を曇らせた。

「行ってみたらええ。三与里は静かで綺麗な村じゃ。村で生まれたものは誰一人とて悪事に手を染めたりゃせん。誰一人な」

 老人の雰囲気には、何かを悔やまれる思慮があった。
 下谷に関係があるのだろうか。
 いよいよ本格的になってきたな、と身を引き締めた。

「ありがとうございます。作業中にお邪魔してすみませんでした」

 頭を下げて農道を歩き出すと、まだ立ち止まっていた老人に背後から呼び止められる。

「あんた、三与里の名の由来を知っとるかね」
「いいえ」
「三つの富を与える里、じゃよ。知性、美貌、そして純潔。男女共に与えられる富であり、金の裕福ではなく人間そのものに三つの富をもたらす村じゃ」



 一里を歩いて、ようやくそれらしい村に辿りつく。
 たしかに、はっとするほど綺麗な村だった。山々に色づいた紅葉に見下ろされ、渋海川を守るようにしてひっそりと佇んでいる。川面を紅葉がひらひらと流れていき、洗濯をしていた女の細い手が一枚をすくい上げた。
 秋の光が川に反射して、女の横顔を暖かく照らす。
 雪のように白い肌をしていた。
 その横顔は、どこか下谷と共通するものがある。
 そっと近づいて声をかけようとすると、女は驚かずにゆっくりとこちらを振り返った。

「どちらの旦那様だったかしら?」
「いえ、江戸から来た者です」
「こんな小さな村に何かご用事ですか?」

 小首を傾げてふわりと笑う女は、やはり下谷がここの生まれだという事を明確に表していた。下谷がそんな風に笑うところは見たこともないが、こういう笑顔を見せる子供だったんじゃないかと想像するのは難くない。

「知人の家を訪ねに来たんですが、下谷という名をご存知でしょうか」

 知っているだろうと予測し、あえて姓を伝えてみた。
 女の手から紅葉がはらりと落ちる。
 柔らかい微笑を浮かべていた顔が強張り、怯えたような目で見上げてきた。
 それでも美しさは色褪せず、儚げな美貌だった。

「……どうして、下谷さんの家を訪ねに……?」

 老人と同じように、その顔色にも何かを悔やまれるような寂しさを漂わせる。
 下谷の家は確実にここにあるのだ。

「息子さんが同じ職場なので、近くに来たついでにご家族にお会いしたいと思いまして」
「息子って、どちらの息子さんですか……?」

 どちら、と聞いてきた言葉は返答に迷う問いだった。
 下谷家の息子であることは、訪ねてきたと伝えた時点で分かっているはずだ。という事は下谷に兄か弟がいて、そのどちらが知人なのかと聞いているのかも知れない。

「圭祐という名前の方です」

 途端に女は口元を両手で覆って眉をぎゅっと顰めた。
 下谷が傷ついた時の顔によく似ている。
 まさか姉という事はないだろうが、白く滑らかな肌は豪雪の地に住まう者に相応しい。
 雪の精霊が生まれ変わったような慎ましさだった。

「無事で……いらしたんですね。お圭ちゃん……」

 女の一言で、自分の胸の内側が絞り上げられたような感覚を感じ取った。
 無事で、とは一体どういう意味だろう。
 この村を出てから江戸に来るまでに、下谷の身に何かあったという事か。
 神の懐に抱かれたような村が、徐々に色彩を失くしていった。
 策略めいた何かの気配が足元から這い上がってくる。

「失礼ですが、少しお話を聞かせては頂けませんでしょうか」
「いいえ……いいえ。とてもお話できるような心境にございません。ご堪忍下さい」

 この口堅さが、下谷を取り巻く不可解な謎を一層濃くした。

「下谷さんの家は、その奥にございます」

 白い指先で樹木の小道の向こうを示される。
 礼を言うと、女は静かに涙をこぼして深々と頭を下げてきた。



 なんという事だろう、と今更になって息苦しくなってくる。
 下谷に関わる過去がこれほど濃厚な謎を秘めているとは思いもしなかった。
 この小さな村をひっくるめた事件があったのだろうかと想像する。老人の『村で生まれたものは誰一人悪事に手を染めたりしない』という言葉の裏に、隠された悔恨が感じられるのはそのせいか。

 樹木で編まれたような小道を抜けると、幾許もしないうちに大きな廃屋が構えていた。
 構えていた、と思ったのは、廃れた家屋に悪質な因縁らしき空気が漂っていたからだ。
 木戸が朽ちて斜めに立てかかっている。
 庭に面した障子は、かつては上質の和紙で貼られていたようで、茶けた紙にうっすらと花のような模様が浮かんでいた。綺麗に残っている一枠を除いて、ほとんどは雨や豪雪に破られた跡になっている。
 こんな家屋に、昨今誰かが住んでいたとは思えなかった。
 一年以上は確実に経っている。
 二年、あるいは三年かもしれない。
 下谷の両親や兄弟はどこへ行ったのだろう。
 生き別れか何かで天涯孤独になり、江戸に来たのだろうか。

 言葉もなく廃屋を見つめていると、脇を老婆が通り過ぎていった。朽ち果てた戸の前で足を止め、手にしていた秋の花を足元にそっと置いて手を合わせる。
 人が亡くなったのだ。
 下谷の家で、下谷の家族の誰かが。
 最近ではなく、とうの昔に下谷の家族が亡くなっている。
 それだけではない。
 女が安否を気遣うような台詞をこぼしたのは、自然の摂理に反した死がそこにある事を物語っていた。




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