ゆ き
七、
◆圭祐──1699年・初夏ノ弐◆
朝飯の前に金を渡すと言われたのに一向に姿が見えない。部屋に押しかけようと階段を上がりかけた時、上から足音もなく麻績柴が降りてきた。
目が合うと、女物の小さな巾着をぽんと放り投げられる。
「はい二十両。男のくせにお高いネェ」
「やり逃げされたかと思ってたよ」
女物の巾着に入れてよこしたのは当てつけかと思ったが、金はきっちり入っていた。白粉の匂いを撒き散らしながら横をすり抜ける男は、昨夜とは別人のようにこざっぱりした顔をしている。
「ねぇ麻績柴さん。吐くほど僕がイヤなら何で買ったわけ?」
ぴたりと足が止まり、振り返ったその顔は本気で驚いたような目をしていた。
「え?」
「だからさ、出てったあと井戸のそばで吐いてたじゃん。失礼にもほどがあるよね。女好きのあんたには僕が生理的にイヤだったってことでしょ」
野郎なんか抱けるかと最初は言う男達でも、次第にこの身体に溺れて執着してきた。
吐かれるほど拒絶されたのは初めてでむかついたが、勝ったと思えばすっきりする。
ただ、生理的にどんな気分で嫌だったのか聞いてみたいと思い、声をかけたのだ。
麻績柴は納得したようにいつもの嫌味ったらしい顔つきでぷっと吹き出した。
「生理的に嫌なのはその態度だヨ。男に媚売って金巻き上げて、それに満足してるならいいものをサ。頭の方が強欲すぎて全然満足してない。そういうところが嫌いだネ」
なにか、ものすごく不愉快なことを言われた気がした。
内面を見透かされ、嘲笑われているような不快感。
何も知らないくせに勝手なことを言う奴が頭にくる。
「じゃあ何で吐いてたの。教えてくれたら今のは聞かなかったことにしてあげるよ」
「可愛げないネェ。最中に減らず口叩いて張り合ってた時は可愛いと思ったのに」
麻績柴はゆっくり歩いてきて、自分の前で隊服の袷を少し開いた。
地肌が丸見えの鎖帷子の下、臍の少し上に古傷がある。
古傷なのに、傷の周辺はまだ新しいような赤色をしていた。
「この下の胃が痛くなっちゃってネ。隠密衆に入る前に御頭に抉られた跡」
「いつ入ったんだっけ?」
「一年前だヨ。傷は今から二年前」
「なんで御頭があんたのこと刺したの?」
「オチビちゃんと同じだヨ。態度は気に食わないけど腕はいい、ってネ」
隠密衆の幹部は御頭も含めて変人揃いだと思った。
ただのごろつきが集まっただけじゃなく、剣の腕がいい変人が集まっている。
身体を売ってる自分も、その中の変人ということか。
「言ってくれれば刀なんかより傷を舐めてあげたのに」
「冗談じゃないヨ。勘弁して」
結っていた髪の紐をするりと解かれ、肩に自分の髪が落ちてくる。
「綺麗な顔と減らず口と、この柔らかい髪は気に入ったけど。お前の態度は大嫌いだヨ」
「あっそ。僕もあんたの態度はキライだからいいよ。でもまたしようね」
「傷が治ったらネ」
麻績柴は組紐を軽く振り回しながら広間へ歩いていった。
互角に張り合えるだけのむかつく奴を、一人は見つけた。
しかし、自分が待ち望んでいることは叶わない。
あの男が言った通り、自分は強欲なんだろう。
◆保智──1699年・正秋◆
「越後に遠征……?」
枯れ葉をさくさくと踏み潰し、下谷が振り返った。
女のようなその顔が自分を見てくると、わけもなく動揺していらいらする。
「いつ」
「今月の中旬らしい。もしかしたら下旬になるかも知れないけど」
「ふーん。なんで他の隊じゃないわけ? それって御頭が決めてんの?」
遠征は入隊試験の後から二度あったが、どこへ行こうとそんな文句は聞かなかった。そういえば下谷は越後の出身だったか、と曖昧な記憶を掘り起こしていると、隊長が団子を持って歩いてくる。
「みたらし団子しかなかったから、三本買ってきたよ」
笹の葉に包まれた団子を差し出してきたので、遠慮がちに一本もらった。
隊長と散歩をするというのは初めての事で緊張する。
それだけならまだよかったが、下谷も呼ばれていたのだ。下谷の性格なら断るかと思ったが、すんなりついてきてひょいひょいと先の道を歩いている。
隊長が何を考えているのかさっぱり分からない。
もともと、雲上の人のような男なのだ。
自分みたいな無骨者には、その奥にあるものは掴み難かった。
「歩きながら食べるのも秋の醍醐味だねえ」
隊長はのほほんとした顔で秋の山道を歩き、みたらし団子をうまそうに食べる。下谷は団子についたみたらしを少し舐め、薄い味、と言って口に放り込んだ。
「下谷。来月越後へ遠征に行くんだけど、班は大丈夫かい?」
「みんな腕だけはいいんだから、別に僕がどうこう指示出すまでもないじゃん」
「じゃあ大丈夫かな。うちの隊、越後入りするのは初めてでね」
隊長がそう言うと、下谷は団子の串を道端に捨てて枯れ葉を踏み潰す。拾う気配もないので、仕方なくその串を拾って笹の葉に包んだ。なんで自分がそこまで世話してやらなければならないんだと思えど、拾ってしまったものは拾ってしまったのだ。
隊長が目で笑いかけてきたので、少し気恥ずかしかった。
「僕、今度の遠征は行かない」
突然、下谷がふてくされたように言い出した。
隊長は静かな顔で見ている。
こっちがはらはらしてきた。
遠征に行かないなどと、班長が言ってはいけない言葉だと思う。
「どうして行きたくないんだい? たしか、下谷の生まれ故郷だったよね」
「そんなの関係ないだろ。とにかく行きたくないったら行きたくない」
「班長は自班を指揮する役目があるから欠番は認められないよ。御頭が定めた掟だ」
「なにが掟だっての? 規則なんて破るのが人間じゃん」
「破れないのが隠密衆だ。破る者には相応の制裁がある」
隊長が討伐の時などに見せる、本性のようなものが現れた。
それだけで身が縮まる思いだった。
下谷はまだ隊長がどういう人間か知らないらしく、ふて腐れた顔でそっぽを向いている。
「うるさいなあ。あんたって良い人ぶっててむかついてくるんだよね」
「そう見えるのは下谷の中に猜疑心があるからだよ。きちんと俺の目を見て話せ」
どうなるんだろう、と緊張した。
夏の頃から思っていたが、隊長は下谷が相当気になっているらしい。自分の部下だから当たり前だが、下谷の素行を一番気にかけているのはこの人だと思う。
隊長は、何を変えようとしているんだろうか。
下谷は隊長の言葉にむっとして目を合わせた。
一瞬、自分の心臓が飛び跳ねる。
今まで見たこともない、傷ついたような目をしていたのだ。
「猜疑心? はん、あんたに何が分かるんだよ。隊長だか何だか知らないけど保護者ヅラされちゃたまんないね」
「自分を欺いてそういう態度でいるように見える。それがこの数ヶ月に感じた事だ」
「ぜんっぜん分かってないじゃん。僕が欺いてる僕ってのはどんなのだっていうわけ?」
「自分が一番よく分かってるんじゃないのか」
「そーいうのをお節介っていうんだよっ! あー分かった分かった、遠征でも牢獄でもどこでも行けばいいんだろ。命令は絶対だもんね、偉い大人の命令はね」
「行きたくないなら御頭に直訴してみればいい」
「行くよ、行けばいいんだろ! 片っ端から殺してやるのが楽しみだよっ」
下谷は癇癪を起こして、山道の脇を走っていってしまった。
追いかけるべきかどうするべきか迷っていると、隊長が溜息をついて肩に手を載せてきた。
「追わなくていいよ、あの子はちゃんと帰ってくるから」
「……あんな癇癪持ちだったなんて知りませんでした。俺と口喧嘩した時もここまで怒鳴ったりしませんでしたし……」
「本当は、叫びたいのかもしれないね。何かに苦しんでるみたいだ」
普段の隊長に戻った、と奇妙な安堵感があった。
これだけ心配してくれる人がいるのに、下谷は隊長を信じていないのだろうか。
「越後に行ったら少し調べてみるよ。あ、これはみんなに内緒ね」
「分かりました」
先が思いやられる。
同室というだけでも苦労しているが、この癇癪で何かが急展開したかもしれない。
いい方に向かうのか、最悪へ向かうのかは分からない。
隊長にすべてがかかっているように思えた。
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