ゆ き
三、
◆圭祐──1696年・晩秋◆
食べ物が喉を通らなかった。
口元に運ぶと、粥のような液状のものが匙からどろりと流れ落ちる。
それだけで食欲がなくなった。
満たされた皿に匙を置いて水だけ飲み、狭い檻の隅にうずくまる。
薄っぺらい布団を引き寄せて膝を抱えると、涙がぽろぽろとこぼれて布団に染みを作った。
「また食ってないのか」
鉄柵越しに男が立ち止まり、錠を外す。がしゃん、という音に身体が震えた。
男が入ってくる。自分が逃げないことを───逃げられないことを知っているので、内側から鍵はかけなかった。蝋燭を床に置き、目の前に片膝をついて覗き込んでくる。
「食わないとな、一週間前に向かいの牢屋で死んだじーさんみたいになっちゃうぞ。骨と皮だけになって、ひからびて、小便も大便も垂れ流したまま死ぬんだよ。そんな風になりたいか、坊や?」
「……嫌です……」
「じゃ、ちゃんと食べないとな。食って寝て、刑期終えたら外に出られる」
優しい声だった。
優しいのに、とても怖い。
「まだ十三だろ? あと一年我慢したらな、こんな罪人ばかりの建物から出られるんだよ」
「……来年の、いつですか……?」
「来年の今頃にはもうお外に出てるよ。お前がちゃーんと良い子にしてたら、春が終わる頃には出られるかもしれない」
この檻の中で良い子にするという事がどれほど耐え難いか、この男は知り尽くしている。
それでも逆らう事はできなかった。
逆らえば、もっと耐え難い仕打ちがくるんだろう。
今より耐え難い事なんて想像もできない。
できないけれど、もっとひどい事をされるんだと思うと泣く以外には何もしようがなかった。
皿に手を伸ばし、少しずつ匙を口に入れる。
食べている間も涙は止まらなかった。
皿の中に涙がぽたぽたと落ちるが、それをすくってはまた口に運んで食べ続けた。
男はずっと片膝をついたまま、全部食べ終えるまで見届けている。
最後の一口を飲み込むと、新しい水を差し出してきた。
「そっちの古い水は替えてやろうな」
古い方の竹筒と新しい竹筒を取り替え、着物の懐から何かを取り出す。
赤い、鶴の折り紙だった。
「奥に折り紙ばかりやってる囚人がいてな。廊下に撒き散らすもんだから、ひとつ持ってきた」
手のひらに載せられた鶴は、綺麗な折り目で羽を広げていた。
二ヶ月過ごしたここから早く出たい。
そっと鶴を両手で包み、嗚咽を堪えながら泣いた。
毎日泣いても泣いても枯れる事のない水は、指の先から滑り落ちて鶴の背に丸い跡をつける。
「泣くなよ坊や。可愛い顔が台無しになっちゃうぞ」
ぐずぐずと鼻を啜っていると、男は頭を撫でて立ち上がった。
「あとでまた来るよ」
その言葉にびくりと身体が震え、布団を引き寄せて膝を抱いた。
歯がカチカチと鳴り合い、唇が乾く。
空になった皿と竹筒を持って、男はがしゃんと牢の錠を閉めていった。
たった一枚の布団を被り、じっとして時が過ぎるのを待つ。
このまま朝になって欲しいと願ったが、朝が来る前に必ず誰かが牢の中に入ってくる。
二ヶ月前までは短かった夜も秋になると日増しに長くなり、それにつられるようにして、牢に入ってくる人間がいる時間も長くなった。
がしゃん、と音がする。
蝋燭の明かりが、布団の上から照らされた。
「遅くなってごめんな。見回り中にちょっといざこざがあって」
さっきの男だった。
六日前も、十二日前も、十八日前もこの男だった。
指先が冷たくなり、唇が震えて止まらない。
布団の中で一生懸命祈ったが、願いは聞き届けられる事なく布団をそっと剥がされた。
「五日間、他の役人に苛められたんだろ? 可哀想にな。怖がらなくていい、おいで」
優しい声ほど、怖いものはなかった。
ここに入る前までは優しい声を聞くと嬉しかったが、今はその声すらも怖くてたまらない。
男は布団を床に広げ、優しい手つきで肩を抱いて、その上に横たわらせてきた。身体が硬直して石のように固まる。男の手が額を撫で、髪を撫で、唇を指でなぞってきた。
「怖くないよ、大丈夫。いつも優しくしてるだろ」
唇に触れていた指が顎へ移り、首筋をすうっと撫でて胸へ下りていった。くすんだ水色の服の袷目から手が滑り込んでくる。不快感に鳥肌が立ち、目を瞑った。
腰の帯をほどかれると、まるで心臓を刺されたような恐怖に駆られて小刻みに震える。
涙がこめかみをつたって耳に入ってきた。
声を上げる事もできない。
裾が左右にめくられ、脚の間に男の膝が割り込んでくる。
きつく閉じても、男の膝ひとつの力にさえ勝てなかった。
両手首を顔の横で押さえつけられ、頬や首筋をざらついた舌が這い回る。
同時に、男の膝が股間を押し上げてきた。
「い……っ」
「痛くしないよ。身体の力を抜いてみな」
ますます硬直する身体に、男は笑って手首から手を離す。
押し上げていた膝を床に付き、横たわっている身体の上を両膝で跨いで移動してきた。顔の前に、恐怖の源を見せつけられる。赤黒く膨らみ、青い血管が浮き出ているそれを唇に押し当ててきながら、顔を両手で掴まれた。
「痛くないことからしよう。口開けてごらん」
震える唇が恐怖の源の先端を掠め、すでにそこから滲み出している液が唇を濡らした。
顔を掴む手が次第に力を込めてくる。頭を潰されそうだった。
怖くて、屈辱的で、それでも口を開いてしまう自分に嫌気が差した。
「良い子だ……ゆっくりでいいよ。ゆっくり息吐きながらね」
息を吐けるほど、喉に隙間がなかった。頭を前後に揺すられ、口腔を塞がれて身体が苦しさにのけ反る。吐きそうになる寸前に引き抜かれ、またじわじわと奥まで攻め立てられた。
やがて、喉の奥にどろりとした体液が注ぎ込まれる。
息を切らせているうちに、それは喉から食道へと流れてしまった。
鉄を噛んだような味が唾液に混ざって口に広がる。
喉に手を入れて吐き出してしまいたかったが、男が竹筒を持ってきて水を飲ませた。
「上手になったな。偉いぞ、坊や」
鉛を入れられたように頭が重たくなっていた。
目が霞んで朦朧とする。
力の抜けた身体を布団に任せていると、下半身にまた不快感なものが襲ってきた。
「いきなり入れたら痛いもんな。少し慣らしてあげような」
すぐに硬直し始めた身体を、上へ上へと逃げるように背中をずらした。
やめて欲しいと言いたいのに、口はただ魚のように開閉するばかりで声が出ない。
背中をずらすたびに男の指が追ってくる。
壁に追い詰められ、逃げる場所がなくなると、男は執拗に指を動かして深みの中を掻き乱した。
……目が回る。
……頭が痛い。
……お腹が痛い。
助けて、助けて。
「一年でどれだけ良い子になるか、楽しみだよ……」
湿り気を帯びた指が抜かれ、息をつく間も与えられずに男の一物が捩じり込まれた。
「…………っ!」
声にならないほどの痛みと恐怖が、身体の中心から胸へ、頭へと突き上げる。
泣き叫んでいた。
身体が壊れるほど狂い叫び、牢の方々から聞こえる囚人の獣じみた咆哮を聞いた。
そして、ぷつりと意識が途切れる。
暗い世界で、揺れる身体をどこか遠くに感じていた。
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