ゆ き


ニ、


 ◆隆──1699年・初夏◆


 新緑に彩られた若葉が風にそよぎ、樹木を見上げてぼうっと立ち止まっていると、かざぐるまを売る商人が向かいから歩いてきた。

「水色のかざぐるまを一本買うよ」
「へい、ありがとうございます。旦那の御着物によくお似合いでさ」

 車に木の板が立てられ、そこに飾られた色とりどりのかざぐるまが回っている。風鈴もいくつかあったが、パタパタと回転する姿に惹かれてつい買ってしまった。金魚売りや飴売りも道をすれ違う。
 軒先から子犬が飛び出してきた。浴衣を着た少年がそれを追いかけ、道ゆく人とぶつかりながら頭を下げて走っていく。
 夏の風情、といった光景だろうか。


「寒河江、そこの蕎麦屋に入ろう」

 手紙を飛脚に預けてきた司が、先の蕎麦屋を指差した。

「何だそのかざぐるま。自分で買ったのか」
「ええ。なんかいいなあと思って。童心に返りません?」
「特に返りはしないが。まあ、お前が持っていると似合うな」
「本条さんにも紫色のやつを買えばよかったですね」
「いらないよ。昔、かざぐるまの羽根で目を切った事がある。それから怖くなったんだ」
「三人衆一の曲者が言う台詞じゃありませんよ」
「曲者はお前だろう。いや、斗上か……どちらにしろ三人衆はみな曲者だ」
「ごもっとも」

 一年上の司とは、よく昼食を食べに城下町へ出てきている。
 寡黙な男だったが、付き合ってみると無口というほどでもない。
 隠密衆に入隊して四年、二十二歳というのは自分の中では中途半端な時期だった。すっかり人生に腰が座ってしまったような司にも、こんな思いがあったのだろうかと考える。
 昼の時間が少し遅かったせいか、蕎麦屋はそれほど混雑していなかった。
 座敷に上がると、毎度のことながら自分は冷麦を注文し、司は茶蕎麦、と言う。

「ここの茶蕎麦もおいしいんでしたっけ」
「一番美味いと思うのは錦の魚住庵だな」
「そういえば、初めて連れていってもらったのはそこでしたよね。あの時は緊張しましたよ」
「緊張?」

 出された麦茶を啜りながら、司は眉尻を少し上げた。腰の座った風貌に静かな目元が相まって、年のわりに渋い仕草がよく似合う。

「当時は本条さんがおっかない人だと思ってたんですよ。それが話してみると案外そうでもなかったので、あの茶蕎麦も平らげられました」
「そうでもなかったという事は、そうでもあった部分もあるわけか」
「あったんですねえ、これが。でも言いませんよ。それが本条さんの人間性ですから」

 すぐに蕎麦が出てきたので、二人とも無口になって食べ始めた。
 面白いもので、無類の酒好きといわれる隠密衆の中でも、司は町に出ると酒を飲まない。下戸でもないのに酒は必要以上に摂ることをしない人なのだ。自分もご多分に漏れず、必要以上に酒の席を設けようと思わない。
 蕎麦と麦茶。
 質素な普通の生活を好むところが、気の合う所以だった。

「今年の新人、どうだ」

 蕎麦を食べ終えてから、司がぽつりと聞いてきた。
 新人が入ると活気づくのがこの時期だったが、今年は少し微妙なものが混ざっている。

「本条さんのところは、今年も班長変わってないんですよね。いいなあ、ずっと同じ班長に支えてもらえるというのは」
「まだ六年目だから、これからの事は分からない」

 十七で入隊してすぐに隊長格にあがった司は、当時から班長が二人とも代替わりしていない。羽黒も三ツ谷も、司と同期で入ってからそのままだった。隊の幹部が自分も含めて全員新人だったのに、現在もこれといった落ち度はまったく感じさせないのが彼の率いる煙狼隊であった。
 ひとえに司の人望と鋭い観察力、無意識のうちに作用している支配力の賜物だろう。
 自分の方はというと、入隊してから同じように隊長格に任命されたのはいいが、班長の出入りはめまぐるしいものだった。一年前にも班長の一人が殉職で変わり、今年も別の一人が入隊試験で破られて代替わりした。
 そして、先月に就任した新人の班長が少し微妙だったのだ。

「今年はですねえ……正直なところ、ちょっと気になります」
「新人の班長か」

 店の女が麦茶を注ぎ足しにきたので、司は一旦口を止めた。
 台場に引っ込むまで見送ってから、重そうに口を開く。

「あの少年、時々死にたそうな顔をするな」

 司も見ていたのだ。
 自分の配下でなくとも、隠密衆のすべてを黙って見つめる洞察力がある。
 冷えた麦茶を啜ってから、司に打ち明けてみようと思った。

「毎晩のように隊士と性交渉して金の取引をしているんですよ。あくまで隊士との個人取引ですから、俺が口を出すことじゃないとは思うんですが……。何か引っかかるものがあります」
「好きこのんでやっている風には見えない。では何の目的でやっているのか」
「それです。あの子は腕がいいので給料に困っているとは思えません。月末の初給はそこそこでしたし。なのに隊士に身体を売ってまで金を欲する行為がどうしたものやら」
「身なりに金をかけるわけでもなし、趣味に金をかけるわけでもなし、か。もっとも、趣味が何なのかは知らないが」

 そう言って自分の首を擦る司は、捉えどころのない感情を静かな目に窺わせた。

「能醍は何か言ってるか? 同室だから話くらいはするんだろう」

 もう一人、一年前に着任したばかりの班長を持ち出してくる。

「保智は避けてますよ。最初はうまくやろうと頑張ったようなんですけど、ひと月でがらりと変わっちゃいました。それこそ腫れ物を扱うみたいにして」
「気弱という男でもないんだろうけどな。寒河江にも打ち明けてないか」
「保智が話したくないなら、俺も黙ってるしかないですからねえ」
「下谷の方はそうは見えないな。隠密衆で浮いているのも、本心がここに在らずという感じだ」

 司があの子の上司だったらどうだっただろう。
 この静かな目で、あの子の本心を引き出せるだろうか。
 考えても本心というのが何なのか分からず、手元のかざぐるまをくるくると回してみる。
 空の色が似合うとよく言われるので、昔から縹色の系統が好きだった。好きな色の話でもしてみようかと思いつく。些細なきっかけがあれば、打ち解けてくれるかもしれない。
 入隊したばかりの頃、司が「うまい蕎麦屋がある」と誘ってくれたことを思い出した。一見してまったく意味のないきっかけだが、その一言があったおかげで今の関係があるのだ。

「金を払ってまで仲間の身体を買う隊士も隊士だが、状況が悪化するようなら手を貸す。何かあったら言ってくれ」

 司は座敷から降りて、二人分の勘定を済ませた。
 勘定はいつも『先に出したもの勝ち』という奇妙な決まりになっている。
 今回は遠慮なく奢ってもらい、次は自分が先に出そうと心に留めた。

「悪化しないことを願いたいものですねえ。本条さんに相談したら高そうですし」
「誰も相談料を取るとは言っていない」
「あはは、冗談ですよ。さて戻りますか」

 風に吹かれて、空に掲げたかざぐるまがパタパタと音を鳴らして回る。

「俺もかざぐるまを買っていく」

 並んで歩き出した司は、すぐそばで子供に風鈴を売っている車へ近づいた。

「なあんだ、やっぱり欲しいんじゃないですか」
「気まぐれだ」

 ふっと静かな目元を和ませ、薄紫のかざぐるまをくれと商人に言った。

「毎度あり。今日はかざぐるまがよく売れまさぁ。大人も流行りなんですかね」
「童心に返りたいんだよ」
「旦那も洒落たこと言いまさぁね。子供の頃ってのぁ誰でも楽しかったもんでさ」

 薄紫のかざぐるまを懐に差し、司は道の先へ続く江戸城を見つめて軽い溜息をついた。




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