蔓草の音


二、


 一年後の晩夏。
 未明に目が覚めて縁側へ出ると、どこからか不思議な音が聞こえた。
 物の怪の鳴き声かと思ったがそれにしては濁りのない音で、曲のようにも聞こえる。

 じっと立ち止まって耳を澄ませた。
 弦だ。
 三味線ほど情緒はなく、琵琶のような深みでもなく。
 繊細で憂いを秘めた弦の音。

 そっと部屋を抜け出して衛明館の外に出た。
 音はすぐそこ、桜の木の上から聞こえてくる。
 そんなところに登るのは一人しかいないが、彼は楽器を嗜む趣味があっただろうか。
 邪魔したくなくて気配を消しつつ、盛り上がった根の上に腰を下ろす。
 ひんやりとした風が髪を煽った。

 聞いたこともない音、知らない曲。唄はない。
 こんなに近くでも消え入りそうな音をしっかりと聴きたくて目を閉じた。
 楽器の音は奏でる者の心を表すという。
 普段から飄々としていて何を考えているのか分からない上杉の心が見えるのではと思ったが、探ろうとした途端にぷつりと空気が裂けて現実へ引き戻された。


「せっかく聴いてもらってたのにすみませんね。弦が切れちまいました」

 目を開けて見上げると、木の間からすとんと降りてきた上杉が手の楽器を見せてきた。

「───それ」

 彼が爪弾いていたのは楽器というか、何というか。

「蔓か?」
「朝顔の蔓でさ。伸びすぎてたんでちょん切って板に巻きつけたら音が出まして」

 同じ三弦でも三味線のようにはならないもんですな、と草むらにそれを捨ててしまう。
 まさか植物で奏でていたとは。
 聴いたこともない綺麗な音色だったと伝えると、上杉は照れ隠しのように目尻を掻いて葉桜の木を見上げた。朝だから眼鏡はしていないらしい。もともとただの硝子を嵌め込んだ伊達眼鏡で、視力が悪いわけではないと言っていた。

「いい風ですな」

 薄橙の朝日が彼の輪郭を淡く縁取る。
 その横顔がどこか寂しそうに見え、らしくないと感じた。


「何かあったのか」

 紅蓮隊は一昨日遠征から戻ってきたばかりだ。特に苦戦したという報告はなかったが、隊内で何か問題でもあったのかと気になって咄嗟に尋ねてしまった。
 上杉は自分の隊士ではない。
 関係ないと言われれば深追いはしないつもりだった。
 しかし彼は一瞬戸惑うような気配を滲ませ、「オレより若いのに姐さんはやっぱり隊長の器なんですな」と呟いて木の根に腰を下ろした。

「ちょっとばかしヘマをやらかした自分に納得が行きませんでね」

 喉に刺さった小骨のようにチクチクと引っかかって眠れないのだと言う。
 自分で訊いておきながら、唐突な告白に目を瞠った。
 遠征から戻って三日三晩、悩んでいるようにはまったく見えなかったのだ。紅蓮隊の隊士や皓司とも普段通りに接していたし、誰も彼の失敗を口にする者はいない。

「そのヘマで部下を危険に晒したのか? 死者も重傷者もいないじゃないか」
「重傷じゃありませんが、利き手をやっちまったのはオレの不徳が招いた結果で」

 利き手を怪我している隊士なんていただろうか。

「シバさんのことでさ」
「麻績柴? 眼中になさすぎて怪我してるなんて気づかなかった」

 生理的嫌悪を感じる奴のことなんか日頃見ていない。麻績柴はともかくとして、何がそんなに上杉を悩ませているのか気になった。ねちねち文句を言われているのか?

 自分の部下には、つまらない事でもいいから問題があれば話せと約束させている。
 不安や悩み、仲間内の不和は命取りだ。
 抱え込んでいるものに気を取られて集中力を失い、結果的に周囲をも巻き込む。それは一種の死角で、気づかなければ気づかない分だけ被害も大きくなる。
 見えない部分を把握するのは不可能だからこそ隊士自ら口を開いて欲しいのだ。


「同じ班長の立場にありながら窮地を救われ、オレがもう少し気の利いた位置にいれば怪我させることもなかったんですがね。一瞬の判断を誤った」

 班長同士が身を守り合うのは特別な例ではない。
 だがお互いにひとつの班を動かす立場、どちらかの班長が窮地に立つというのはその班全体を危機に陥れる事になる。

「自尊心、てやつでしょうね。シバさんとオレは入隊期が一年しか違わないのに、たった一年程度でこんなにも実力が違う。同じ地位にいるのが情けなく思えてきまして」

 そういう事か。
 器用な上杉でも人並みに悩むのだと知って、不謹慎だが少し安心した。

「身体能力の差はどうあれ、上杉は班長に適していると思うぞ。私はここ一年の事しか知らないが、お前の班は死者も出てなければ揉め事も起こってない。ちゃんとまとまっている」

 それに引き換え、麻績柴の班は遠征での死者二名、揉め事も茶飯事だ。
 死んだ二人はどちらも自業自得で、助ける必要はなかったと皓司が言っていたが。自業自得の状況になるまで放置していたのは班長の目が疎かだったせいだろう。


「気にするな、と言ったところで無意味だろうから別の言い方にするけど」

 城下の果てに朝日がくっきりと顔を出す。
 朝っぱらからこんなに喋ったのでは、夕方まで寝直さなければ身が持たないと思った。

「麻績柴が怪我したのは単にあいつの能力不足だ。自分の身もお前の身も両方守れる自信があったから援護に入ってきたんだろう。仏像を守ったわけじゃないんだし、援護の対象が予測不可能な位置に動くのは最初から計算できたはずだ。その上で負傷したなら自己責任以外の何ものでもない」

 その証拠に麻績柴は怪我のことを周囲に隠しているだろう、と確信持って尋ねると、上杉は束の間放心してゆっくりと頷く。

「深手に見えたんで隊長に報告しようとしたら、黙ってろと怒られました」
「ほらな。自分の失敗だと分かっているから言えないんだ」

 麻績柴の無駄な自尊心に比べたら上杉の自尊心など普通すぎるほど普通ではないか。

 そろそろ戻ろうと玄関の戸を開ければ、待ち構えていたような格好で立っている皓司がそこにいた。「二人とも今日はお早いですね」などと素知らぬ顔で愛想を振りまかれる。
 立ち聞きされていたのは言うまでもない。





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