蔓草の音
翌日、浄正と皓司は揃って衛明館を出ていった。 日が沈む頃になって、上杉もぼちぼち信濃へ発つと荷物を抱えて広間に下りてくる。見送りはいらないと言って広間で皆と別れた。 いつも通り朝昼を隣合わせで食事し、特別会話もしなかったのだが。 何か言い残した顔してますね、と隆に見透かされ、足早に広間を飛び出した。 「上杉」 のらりくらりと相変わらずの歩調で門へ向かっていた猫背を呼び止める。 「姐さん。どうしたんで?」 鼻にずり落ちた丸眼鏡の上から眠そうな半目が覗いた。 「出て行くつもりだったのなら、ひと言教えて欲しかった」 事前に知らされたからといって何が変わるわけでもない。 自分が上杉にとって特別な存在であるわけもない。 お門違いなのは百も承知している。 それでも───初めてひとつの情を彼から教わったのだ。 生きて友と別れる心情を。 物心ついた時から家族のように共に暮らしてきた四神以外、馴染んだ人間と生き別れた経験がなかった。 浄正や皓司とは違い、上杉にはもっと近い波長のようなものを感じている。 それを友と言うのだと朱雀に諭され、自分にはそういう相手がいなかったことを知った。 「お前がいなくなると寂しい」 正直に告げると、上杉は眠そうな目を瞬いて首を傾げた。 「江戸と信濃はお隣さんみたいなもんですぜ?」 前線と違って諜報は単独行動になる。調査が主と言えど敵と対峙する時はするのだ。 一人で大丈夫なのか、と聞くほどには彼の腕を過小評価していないが、潜入中の諜報員が暗殺されたという報告は多い。同じ江戸でさえ生死の分からない者もいるくらいだ。 「野垂れ死んだら承知しないぞ」 言いたいことはそれだけだと口を閉ざすと、上杉は数歩戻ってきて足を止めた。 「もし死にそうになったら姐さんを思い出して踏ん張りまさぁ」 冗談のように笑われたが、本当に死んだら魂を捕まえてぶん殴ってやる。 じゃあな、と踵を返しかけた時、ふわりと手に温もりが伝わってきた。 「姐さんの傍は居心地がいい。離れてもそういう場所は忘れないもんでさ」 触れられた右手にいつかの言葉を思い出す。 好きなように過ごし、好きなように立ち去れるから居心地のいい場所なのだと。 「気が向いたらぶらっと飯食いに帰ってきます」 別れではないと言う上杉の何が好きか分かった。 とことん自由気ままに生きているところが好きなのだ。猫に似ている。 「そうか」 どちらからともなく手を離し、思うままに立ち去った。 蔓草の弦を爪弾いていた友はもういない。 |
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