九. 今夜は圭祐が衛明館の巡回当番だった。江戸城内であっても不審な輩が入ってくることはある。衛明館が隠密衆のねぐらだと知っている敵が、過去にも何度か奇襲をかけてきたことがあった。その為に設けられた夜の巡回で、当番は班長六人の交代制である。 班長の部屋は二人で一部屋。 相方が冴希になった深慈郎は特別に一部屋を貸し切れることになり、冴希も別の一部屋を占領できる待遇だった。そういう例外は除いて、保智と圭祐、宏幸と甲斐の各班長部屋は共同だ。宏幸と甲斐は互いに相容れない性分なので、狭い六畳半間の部屋を箪笥で仕切り、その上に天井まで物を積んで完全に分割している。 一方、保智と圭祐は同室になってからの一年間ほどは部屋を仕切っていたが、圭祐の方から仕切るのをやめようと言い出したのがきっかけで、かれこれ数年間は布団を並べて寝ていた。いつもは隣に敷かれている圭祐の布団がなく、保智はその分の空白を見つめてうとうとと瞼を閉じたり開いたりしている。 「圭祐の巡回日は何かしら問題が起こる……」 寝言のように呟き、暑くて横に撥ね退けた掛け布団を抱くようにして目を閉じた。 直後、背中でかすかに襖の音がする。 圭祐が一旦戻ってきたようだった。気遣って音を立てないようにするところが圭祐らしい。 「途中で戻ってくるなんて珍しいな」 眠気で体を反転させるのも億劫で、背を向けたまま暗がりに声をかけた。 ぱたん、と襖を閉め、圭祐が歩いてくる。 「うん、ちょっと疲れちゃった」 圭祐が疲れたと口にするのも珍しいと思ったが、少し声が嗄れていることの方が気になった。夏風邪にでもかかったのだろうか。そういえば昼間、咳をしていたかもしれない。保智は今頃気付き、どうして代わってやらなかったんだと自分を責めた。 「風邪引いてたんだろ。替わるからお前は寝ろよ」 そう言って上体を起こすと、突然背中から肩に手が置かれる。 わけもなく心臓が飛び跳ねた。 「……保くん」 掠れた声が、心なしかいっそう頼りなく存在を感じさせる。 「な、なんだよ」 一人で動揺していると、肩に乗せられた圭祐の手がふわっと背後から抱きしめてきた。 保智は今自分に何が起こっているのか、肺を突き破りそうなほど飛び回る心臓の鼓動が激しすぎて、咄嗟には分からなかった。何が起こっているんだというよりも、圭祐に何が起こったんだという疑問が頭の中を駆け巡っている。 首に回されている細い腕から花の香りがした。甘く、目眩がしそうな微香。 「……圭祐、あのさ」 「保くん……。今ちょっとだけ、駄目?」 心臓が破裂した。本人がそう思っただけだが、鳩尾に蹴りを食らったように息が止まり、ぐわんぐわんと揺れる頭から目眩がする。花の香りのせいではない。 「けけ、圭祐っ。ちょっと待て、熱でおかしなこと口走ってるよお前……っ」 振り向こうとした保智は、だが頬に圭祐の顔が寄せられて向くに向けない。頬の感触は柔らかく、自分のようにざらついてはいなかった。熱を帯びたような吐息が耳に吹きかかり、保智はがちがちに硬直していた。 「熱のせいじゃないよ」 掠れ気味の声で囁いた圭祐は、頬を付け合ったまま右手を静かに夜着の袷へ滑り込ませてくる。白い手が左胸をまさぐるるようにゆっくりと上下した。 「保くんの心臓どくどく鳴ってる。……ねぇ、抱いてくれない?」 「圭祐ッ!!」 保智は激しい目眩に視界を揺らしながら、それでも勢いよく立ち上がって圭祐の腕を振り解いた。 「お……俺はお前のことは好きだけど、いや、好きって言ったって普通の意味だけどっ! だっ、だから俺はもうそん……そんな気は少しもなくて……」 今度こそ振り向いて相棒を説得しようとした保智は、干上がった魚のように口をぱくぱくと開閉し、二の句を次げずに喉を詰まらせる。 「え〜っ、けいすけ抱いて欲し〜いっ」 保智が見たものは風邪気味の圭祐の姿ではなく、薄桃色の襦袢を着た梓砂だった。梓砂は腰に両手を当て、拗ねたような顔で頬をぷうっと膨らませる。 「もーちょっとだったのに、ともぴーったらどぉしてそんな硬派なわけぇ? 奥手っていうか〜」 保智の顔が見る間に白くなっていき、顎は見事に外れていた。だが梓砂はすぐに、してやったりという顔に歪ませてくすっと笑う。 「『もうそんな気はない』んだ〜? ふぅ〜ん。つまりそれってー、お圭ちゃんに『そんな気』を持ってたことあったってワケよねぇ。そぉなんだー、やっぱりね〜」 保智の体が石化していく様を楽しそうに見つめて、梓砂は保智の腕にそっと触れた。 「お圭ちゃんの声、似てたでしょ? あたし声帯模写が得意だってことさっき思い出したのよね」 「…………ぅ」 「ともぴーの胸板の感触はしっかり覚えとくわん。また今度続きねっ」 梓砂は袖をひらひらと振って襖を開け、閉める前にもう一度手を小さく振って去っていった。 布団の上に突っ立ち、保智は喉に物を詰まらせた声を吐き出そうとする。 「…………………」 体は硬直したまま、白目を剥きかけたような顔だった。 梓砂と分かった時点で、すでに意識はどこかに飛んで行ったらしい。 どれくらい石化していたのかも本人は分からず、再び襖が目の前でそっと開かれた。小柄な顔をひょこっと覗かせ、予想外の部屋の様子に少し驚いたような顔で入ってくる。 「あれ? 保くん、起きてたんだ」 返事はなく瞬き一つもしない相棒に、圭祐は首をかしげて保智の前に立ち、顔の前に手をかざした。 「保くん、どうしたの?」 「う……ぅ…………うわぁぁぁぁあーッ!!」 突如、保智が鳥肌を立ててものすごい絶叫を上げた。来るな、近寄るな、と叫んで部屋の隅に後退りしていく相棒に驚きながら、圭祐は目を瞬かせて保智を落ち着かせなければならなくなったのは言うまでもない。 |
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