五.


 朝食を食べてから一旦自室へ戻っていた沙霧は、やる事もなく広間へ入ってきた。衛明館の広間は家庭で言うところの居間のようなもので、外出や稽古以外にやる事のない暇人は大抵ここでくつろいでいる。
 開け放たれた部屋に足を踏み入れると、沙霧はそこでふと足を止めた。水揚げされたマグロのようだと梓砂が例えた通りの風景が、今に限って微妙な緊張感を漂わせているのだ。今朝までは弛緩した奴らが寝そべって足の踏み場もないほどだったのに、ほんの小一時間で空気ががらりと変わっていた。

「珍しい空気だな。葛西殿から召集でもかかったのか」

 入り口の近くに妙な格好で寝そべっていた隊士に声をかけると、彼は途端に立ち上がって居住まいを正し、強張った顔で返事をする。

「しょ、召集はかかってません。妙な奴が帰ってきまして……」
「妙な奴? 上杉か」
「違います。と……東北担当の奴です」

 東北の諜報員といえば一人しかいない。『彼女』が帰ってきたのなら、この異様な雰囲気とつい今しがた浄次の部屋の方で騒々しかった理由に察しがついた。そのうち戻ってくるだろうと思い、沙霧は廊下の窓の縁に腰を乗せて空を仰ぐ。我躯斬龍の方から、甲高い声が聞こえた。

(梓砂が帰ってきたとなると……奥村の件は片付いたな)

 沙霧がそんなことを考えていると、窓の外の生い茂った垣根をガサガサと漁る背があった。横から移動してきたその背は、何かを探しているらしい。

「能醍」
「うわっ!」

 普通に声をかけたのだが、その背は垣根を突き破って過剰に驚き、ぱっと振り返った。

「貴嶺さんか……。驚かさないで下さい」
「驚かしたつもりはない」

 窓から沙霧が見ているので、保智は気まずそうに首の辺りを掻きながら次の会話か行動を考えて迷う。結局どちらも決まる前に沙霧が口を開き、保智の思考は無駄に終わった。

「何か探しているなら、手伝おうか」
「なっ、何でもないですよ。ほんとに。ところで貴嶺さんこそ、何でそんなとこにいるんですか」
「いたら悪い?」
「……そうじゃなくて、だからその」

 保智は一人漫才のように手を振りながら、たまに沙霧とこうして普通の会話をするとまともに話せない自分を呪った。仕事をしている時は何でもないが、日常の会話が苦手なのだ。そして一言も言いたいことを伝えられず、誤解に終わってしまうのがいつものパターンだった。

「目障りならそうと言えばいい。邪魔して悪かったな」

 沙霧は気を害した風でもなく窓から腰を浮かし、広間の中へ入る。保智はこの期に及んで誤解を解こうと、窓に手を突いて乗り出してきた。

「邪魔だなんて思ったわけじゃないですよ! 誤解のないように言っておきますがっ」

 沙霧はふっと笑って軽く手を上げただけだった。
 何を考えているんだか分からない相手の返事に拍子抜けして、保智は自己嫌悪に陥る。

「……また誤解された……」

 保智が窓にもたれて悩んでいるところへ、廊下の先から宏幸のせわしない声が響いた。



「だっから戻る必要なんかねーってば! 今度の遠征で俺が死んだら隆さんのせいにしますよ! 俺マジだからなっ」
「大丈夫だよ。宏幸は殺しても死なないくらい強いから」
「……全然褒められた気がしねーんだけど。ってか、広間は駄目だっつのに聞いてんですか!」

 隆は腕にぶら下がった宏幸を抱えたまま広間へ戻ってきた所だった。梓砂が待っててくれと言ったので、律儀にもそれを実行しているのだ。宏幸は宏幸で敬愛する隆が梓砂に取られて頭に来ている最中で、遠征の相談などそっちのけだった。梓砂と引き合わせない為だけに体力を振り絞り、隆を広間から遠ざけようと奮闘する。だが隆の腕力には敵わず、腕に引っかかった死体のようにずるずると広間へ運ばれてきた。
 隆は広間に沙霧が来ているのに気付き、品のいい笑顔で笑う。

「やあ貴嶺さん。梓砂ちゃんが帰ってきてますよ」
「そのようですね」

 腕にぶら下がっていた宏幸は沙霧の声を聞いて隆の横に立ち、てれっと笑った。
 愛想を振りまく犬に見えたのは沙霧だけではない。

「姐御が広間に来るなんて珍しいっスね」
「暇を持て余していてね。退屈しのぎになりそうなのが帰ってきたらしいが」

 梓砂の話題が出ると途端に不機嫌になる宏幸は、隆の腹に地図を叩きつけて恨めしそうに見上げる。

「隆さん、この話っ」

 隆は苦笑して受け取った半紙をたたみ、懐に仕舞ってそこをぽんと大事そうに叩いた。

「せっかく梓砂ちゃんが帰ってきたんだし、明日の昼にまた教えてあげるから。ね?」
「ね、じゃないスよ、ったく。畳んでさっさと懐に入れてるしっ」



 梓砂は祇城を引っ張って廊下を走り、その姿に気付いた保智が窓から顔を引っ込めたのには気付いていなかった。広間の前を通り過ぎて沙霧の部屋へ向かおうとした梓砂は、銀色の影がその中に見えて急ブレーキをかける。祇城は梓砂の頭に顎をぶつけ、それでも大根だけは手にしっかりと握っていた。
 梓砂は目を輝かせて広間へ戻ると、両手を目一杯広げて沙霧に飛びついた。その挙動は広間にいた隊士達に怒りの火種を植え付けることになる。

「さーちゃぁぁぁんっ!!」

 梓砂の黄色ならぬ桃色を帯びた声が再びマグロ集団を直撃した。

「お帰り」
「ああんもう! さーちゃんてば相変わらずいい香りー!」

 沙霧の腰に抱きつくと、梓砂の身長では沙霧の胸までしかない。それを計算に入れているのか定かではないが、豊かに膨らんだ胸に頬をすり寄せ、梓砂はごろごろと甘えた。周囲が俄かに殺気立つ。それを代表するかのように、宏幸は梓砂の腰帯を掴んで引っ剥がしにかかった。

「こらカマ野郎! 姐御のむ、む……胸に頬擦りしてんじゃねえっ!」

 マグロ達が拳を握って一斉に力む。熱気が室内に充満した。

「殺っちまえ!」

 虎卍隊の数人が宏幸を声援するが、手は出してこない。いざという時に責任を被るのは宏幸一人に任せようという魂胆だった。剥がそうとすればするほど梓砂は吸盤のように沙霧に吸い付き、余計に胸へ顔を埋めていく。

「なによ〜。ゆっきーだって頬擦りしたいんでしょー?」
「そりゃ……じゃなくてっ、やっていいことと悪いことがあんだろてめぇ!」

 一瞬手を緩めて動揺した宏幸は、我に返って梓砂の帯を更に引っ張った。

「あれ、頬擦りしたくないの。そっかそっかぁ、ゆっきーはさーちゃんのこと嫌いだったのねぇ」
「都合よく話をすり替えんな!」
「殺っちまえよ高井さん! 江戸っ子魂を見せつけてやれ!」

 好き勝手に自分達の上司を煽るマグロの殺気が一層熱くなり、その野次声援は館中に響いた。豺狼の群れと恐れられている隠密衆といえども、所詮はただの人間である。



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