二.


「うあーっちっちぃっと。誰や風呂に火ぃつけっぱなしやったんは」
「フンドシ一丁で歩き回るんじゃねーよ。むさ苦しい」

 朝風呂に入ってきた弥勒が広間に転がり込んでくると、宏幸は隆の横で地図を広げたまま手で追い払うような仕草をした。

「なんやその地図」

 弥勒はどかりと畳に座り、地図をひったくって眺める。

「千曲川? 信濃がどしたんや」
「来週、虎卍隊の遠征だろう? 宏幸が戦略たてたいっていうんで教えてたんだよ」
「うそーん。わい知らんでそんな話」
「おいバカ猿。阿呆でも能無しでもてめえが率いる仕事だろーがよ!」
「知らんもんは知らん言うて何が悪いんじゃ!」

 いきなり取っ組み合いの喧嘩が始まった。隠密衆でもっとも血の気の多い隊士が集まっている虎卍隊の先陣がこれではどうしようもない。隆は二人を制して引き離し、フーッと猫のように毛を逆立てている宏幸に地図を渡した。

「揉め事起こすと教えてあげないぞ。同じ隊なんだから協力すること」
「……すんません」

 隆には手も頭も上がらない宏幸は、借りてきた猫のようにおとなしくなる。

「殿下にはとことん甘えん坊やな。けけけ、みっともなーっ」

 言わなければいい事を言うから頻繁に揉め事が起こるのは二人に限らず、虎卍隊全員の自慢といってもいい。再び取っ組み合いを始めた二人をよそに、日当たりのいい広間では衛明館に住み込んでいる隊士がぼとぼととマグロのように寝転んでいた。隆は苦笑して軒下にぶら下がっている風鈴を仰ぐ。チリンチリン、と鈴の音が鳴っていた。



「たっだいまよ〜ん!!」

 風鈴を見上げていた隆の目の前に、橙色と甲高い声が飛び込んでくる。
 その声で、寝ていた隊士達が一斉に飛び起きて目を剥いた。

「ぐわっ! ついに来やがった!」
神宮(かんのみや)……!? この暑苦しい時に!」
「……うちに可愛い女の子がいる……」

 中には寝呆けている奴もいたが、少女の正体を知っている何人かは一斉に部屋の隅へ後退りした。弥勒と宏幸は顔を見合わせて呆然とする。少女は広げた両手と笑顔を引っ込めてぷぅっとふくれた。

「な〜にぃ〜? みーんな水揚げされたマグロまんま〜。あたしなんか夜中に東北道歩いてきたのにぃ〜」
「お帰り、梓砂(あずさ)ちゃんしばらく振りだったけど元気そうだね」

 広間の中では様々な感情が渦巻いているが、隆だけは平素と変わらずにこにこと少女を迎えた。艶やかな黒髪を頭の右側にひとつで結った少女は、ぴょんぴょん跳ねる髪を弾ませて隆に抱きつく。

「きゃーきゃーきゃーッ! 隆ってばさらにイケメンになってるじゃない! あずさもぉ超カンゲキ〜!」
「がーっ!! てめぇコラ、隆さんを呼び捨てにするな! 抱きつくな!」

 弥勒と呆気に取られていた宏幸は、途端に隆へ飛びついて少女を引き剥がそうとした。鳳凰の刺繍を施した橙色の振袖が目にも鮮やかな格好で、少女は隆の首に抱きついて抵抗する。

「い〜ったいってばぁっ! レディになんてことすんのぉ!?」
「てめえが離れりゃ済むんだよっ。隆さんにカマ菌移すな、カマ!」
「ひっどぉ〜いっ! ねえねえ隆ったら、ゆっきーの調教間違ったんじゃな〜い?」
「ゆっきーじゃねぇ!」

 隆の首に噛り付いた梓砂を揺するので、隆までぐらぐらと揺れていた。


 カマ、と面と向かって言った宏幸は根っからの正直者である。
 梓砂の性別は男だった。齢は十八。五尺三寸の小柄な体で振袖を纏い、髪に花簪を差し、薄紅を引いた小さな唇で妙な喋り方をする。知らなければ誰も男だとは気づかないほど、その容姿は少女のように愛らしかった。圭祐が可憐な美少女のようだと言えば、梓砂は愛嬌のある美少女のような顔立ちなのだ。裏声を使いすぎて地声になってしまったらしい声も、その容貌にしっくりと馴染んでいる。
 隠密衆にはそういうおかしな人物が揃っている事実がここでも表明されたというわけだ。


「それにしても腐ったマグロばっかで景色サイアクぅ〜。イケメンが隆のほかにだぁーっれもいないじゃないの」
「我躯斬龍とか、町の道場に出かけてるんだよ」
「なーんだ、そぉなの。つぐつぐはー?」
「つぐつぐって誰やねん……」

 入隊して一年目の弥勒は梓砂と三度目の面識だったが、その性癖がいまだ理解できないらしく、近づきたくないような顔でぼそりと突っ込んだ。それに対して梓砂は弥勒など眼中にもなく、自分の審美眼に適った男しか相手にしない。

「なんかどっかからサルの鳴き声が聞こえるわねぇん? あたし山ん中を通過してきたせいか、サルの鳴き声が耳に残っちゃってるみたい」
「誰がサルじゃ腐れ変態っ!!」
「ソッコーつぐつぐに報告いかなきゃってカンジだしぃ〜。つぐつぐどこ?」
「御頭は自室かな」
「あの素焼きとお茶くさい換気サイアクな部屋ね。懐かしすぎて鼻から緑茶が出ちゃうみたいなー」

 隅に固まっていた隊士は梓砂の喋り方に耳を塞ぎ、目を逸らしている。梓砂が男でなければそんなことはしない辺りが現金な集団だった。

「じゃ、ちゃちゃっと行ってくるわん。マッハで戻ってくるからここにいてねん、隆」
「行ってらっしゃい」
「いっやーん! 夫婦っぽいわぁん! もっかい!もっかい言って!」
「もう帰ってくんな! てか隆さん、場所変えて教えてくれよっ」

 宏幸は地図を隆の前でびらびらと振りかざしながら、本気で懇願していた。


 ……皐月の橙嵐、ここに風吹く。



戻る 進む
目次


Copyright©2002 Riku Hidaka. All Rights Reserved.