一.


 風鈴の音が涼しげな、風薫る初夏。

 入隊試験から早くも二週間が経ち、見込みのない者はとっくに除隊させられていた。普段の仕事はのろのろとやっている隠密衆だが、そういう事に関してはやることが早い。
 理由はただ一つ。
 給料と食費がかさむからだ。
 使えない者にタダ金タダ飯を食わせてやる義理人情はここにはなかった。


「仮入隊員十八名、そのうち昨日までに除隊させた者十三名」

 隊士を管理している帳簿を開いて、圭祐は読み上げた。

「少し切り捨て数が多すぎませんか、御頭?」

 備前焼の壺を眺めていた浄次は、とろけそうなほど恍惚とした目を上げて圭祐の顔を見る。焼き物を眺めている時の浄次は常にこういうだらしのない顔だった。

「実に素晴らしい」
「壺の話じゃなく、除隊の数の話ですが……」

 圭祐は苦笑して浄次の前の壺を脇に退け、代わりに湯呑みを差し出す。茶と焼き物は浄次にとってイコールの価値だと知ってこその技だった。浄次は御用達である駿河の上質茶を啜って舌鼓を打ち、一瞬にして真顔に戻る。百面相に近いと思わざるを得なかった。

「除隊に価する者を選び抜いて俺に報告したのはお前だろう。だから除隊しただけの事だ」
「それはそうですけど、御頭は彼らの力量をその目でご覧になってないでしょう?」
「必要ない。隊士の管理は下谷に任せているからな」
「私の一存で決定されても困ります」

 浄次は隊士の管理に関することはすべて圭祐に任せていた。面倒くさいという言葉を強引にねじ伏せ、圭祐の観察眼に全幅の信頼を寄せているからだ。何においても圭祐の助言を無視した事は一度もなく、またそれは必ず成果を残している。浄次の率いる隠密衆が統制を保っていられるのは、裏で圭祐の助言が功を成しているからでもあった。

「お前の助言はそのまま俺の言葉と思え」

 あっさりと一言で片付け、浄次は次の報告を促した。

「各地の報告は入っているか」
「肥後の四ツ橋奉行が北見藤吉郎から裏金の取引があるらしいとの報告が一件。信濃では旗本・平山正蔵邸で夜盗騒ぎが数回、まだ捕まっていないそうです」

 浄次は苦虫を潰したような顔で眉根を寄せる。

「たかが夜盗騒ぎを報告する奴は誰だ。火消しの役目だろう」
「信濃の担当は上杉柘榴です」
「ああ、あの変わり者の情報屋か……」
「情報屋って……諜報隊士ですよ、御頭」
「まあいい。あいつは放っておくのが一番だ。それで、東北方面はどうなんだ」

 圭祐は肩を竦めていたずらっぽい仕草をすると、湯呑みを手に取った。

「東北はなかなか情報が来ません。担当員を変えた方がいいでしょうか」
「動きがないのなら情報はなくてもいいが、ふた月も音沙汰なしとなると怪しいな」

 浄次と圭祐は揃って溜め息をつき、同じことを考えているらしかった。


 東北、ことに出羽(現在の秋田と山形)を担当している隠密はなかなか情報をよこさず、あまつさえ御頭に承諾も得ず自分でさっさと片付けてしまう癖があった。報告が来るのは始末後の詳細のみ。詳細と言っても気まぐれに届く文に数行書かれているだけで、浄次としてはそれを上にどうまとめて報告すればいいのか毎度悩まされているところである。

「もうそろそろ書簡が届く頃だとは思いますけど」
「今年初めなんぞ昨年にまたがって四ヶ月も音沙汰なかったんだぞ。代わりに隠密をやっても、そいつも帰って来ない。春にようやく文が届いたかと思えば、年末は大掃除で大変、新年は祭りや行事で忙しいと抜かしたんだからな、あの馬鹿者は」

 圭祐は苦笑して湯呑みに茶を注ぎ、浄次を無言でなだめた。よく出来た女房のようだと言われる所以には、こういう所作が含まれているのかもしれない。

「本日の報告は以上です」
「うむ、ご苦労」



 衛明館の庭を通ると、祇城が庭を掃除をしていた。

「祇城はよく庭掃除してるね」

 圭祐が声をかけると、雑草をぶちぶちとむしっていた祇城は手を止めて振り返る。

「庭が汚いともぐらが出るので」
「もぐら?」
「茶色い大きなやつです。尻尾があって前歯が長い。縁側の椅子が齧られてました」
「それ、多分ねずみだと思うよ」
「ねずみ……マウスですか。そうかもしれない」

 祇城はまたぶちぶちと雑草をむしり始め、これから咲く紫陽花の葉に水を与えていた。


 何も問題のない衛明館など3日と続かない。
 それがここ数日、妙に静かすぎると圭祐は思っていた。日常の騒々しさは茶飯事でも、大きな出来事が起こっていない。問題などない方がいいのは当たり前だが、隠密衆に限ってはその方が不気味だと思えるのだ。

「嵐の前の静けさ、ってとこかな」

 祇城が首をかしげて見ていたので、圭祐は何でもないと言う風に笑って部屋に戻った。



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