虎子耽々


三、

「ざまぁねえな! おととい来やがれ!」

 宴会が始まると新入隊士は古株によって酒の洗礼を受ける。儀式ではなく先輩が勧めた酒は断ってはならぬというだけだが、呑めないなどと言おうものなら一升瓶を口に突っ込まれてまで呑まされるのだ。
 しかし宏幸は先祖代々酒豪の家に生まれたのをこれ幸いに一升瓶を一息で空け、早くも周りから気に入られた。調子に乗ると歯止めが利かないのは宏幸も隊士も同じで、呑み比べの一騎打ちに雪崩れ込んでいる。負けた隊士たちは酔い潰れてそこかしこに寝転がり、あるいは廊下や庭で無様に行き倒れていた。

「お酒強いんだね、宏くん」

 厨房から追加を運んできた圭祐が空の瓶と入れ替える。

「おめーは弱そうだな」
「普通だよ」
「もっと強い奴いねーの?」

 姉達の方がよほど強い。ここの隊士はみんな口だけだ。興醒めして期待もせずに尋ねてみると圭祐は辺りを見渡し、ちょうど広間を出て行こうとした男を呼び止めた。

「甲斐くん。班長が新しくなるんだから今夜は外出禁止」

 赤襟の男が振り返る。いやに小綺麗な横顔でつい凝視してしまった。

「目敏いネェ、ケースケ。涼みに行こうと思っただけダヨ」
「部屋でならいいけどね」

 第一印象、優しそう。顔もさることながら声もなかなかの優男だ。江戸には、少なくとも自分の育った環境には、こういういかにも『お兄さん』といった雰囲気の男がいなかった。粗雑な父と粗暴な姉達のおかげで優しく美しい男女に目がない宏幸は、今こそ運命の『お兄さん』に出会ったのだと確信する。これが腕の立つ人なら尚いい。

「あの、よかったら呑み比べを……」
「あ、甲斐くんはダメなの。呑みすぎると本当に死んじゃうから」

 そこらじゅうに酔い潰れた死体が転がっているシチュエーションでそんなことを言われても新鮮味がない。だが相当酒に弱いのだろう甲斐なる優男は、これまたドキリとするような微笑でもってこちらを見た。

「酒じゃなくて刀ならいくらでも相手になるヨ」
「そ、そんじゃ明日にでもぜひ手合わせして下さい!」

 勢いで予約を取り付けると、彼は「キミが生きてたらネ」と一言残して出て行く。二日酔など経験したことのない身、明日が楽しみだ。

「ちゃんと部屋にいてくれればいいんだけど……はぁ」

 横で圭祐が軽く溜息を吐いた。なぜそんなに心配するのかと聞けば、どうも麻績柴甲斐なる優男は遊郭へ通うのが日課らしい。そばにいた赤襟の隊士が「うちの班長に近づくと白粉臭くておっ勃つぜ」と笑った。さらにその隣の赤襟が「やれるモンなら麻績柴さんといたしてみてえな」と笑う。先刻の眼鏡パンダといい、赤襟の隊はその麻績柴さん以外全員イカレているのではなかろうか。



「酒の相手がいないんだって?」

 新入も古株もほとんどが酔い潰れた中で圭祐とちびちび酒を呑んでいるところへ、上座の方から背の高い男が歩いてきた。隊服ではなく質の良さそうな着物を着た、こちらもまた全身で優しそうな雰囲気を醸し出している『お兄さん』。
 ついつい凝視すると、彼はにっこり微笑んで正面に腰を下ろした。

「どれ、俺と比べっこしよう宏幸」

 宏幸、宏幸、宏幸、宏幸───
 頭の中にその穏やかな声が何度も響く。これぞ運命の以下略、寒河江隆と名乗った相手にしばし我を忘れた。こんな兄が欲しかったのだ。来る日も来る日も名を呼ばれる時は姉たちの怒声か父の怠慢なガラ声で、優しい声で呼ばれた記憶など一度もない。
 至福を噛み締めながら酒瓶を握り締め、ずいっと前に差し出した。

「この高井宏幸、お酌させていただきまっす!」
「え、呑み比べだろう?」
「いや是非お酌させて下さい! ささ、どうぞ!」

 盃を手に押し込んで溢れるほど注ぐと、彼は笑って一息に飲み干す。

「次は君の番だ。でも盃じゃ埒が明かなさそうだから瓶でいこうか」
「俺が勝ったら明日手合わせして下さい!」
「宏くん、さっき甲斐くんとも約束してなかったっけ?」

 満タンの一升瓶を渡してきた圭祐の突っ込みは無視して酒だけ受け取り、一気に呷って見せた。周りで良い具合に出来上がっている赤襟の隊士たちが手拍子を取り、最後の一滴が喉を通ると大歓声が沸き起こる。これで丸々四本目を空けた。

「いい呑みっぷりだねえ。もし俺が勝ったら宏幸は何をしてくれるんだい?」

 宏幸、宏幸、宏幸、宏幸───
 再び心地良い声音が脳内に染み渡る。その甘美な響きに酔い痴れそうだ。

「何でもいいっス。肩揉みでも風呂掃除でも雑草取りでも」
「それじゃうちの店の蔵整理を手伝ってもらおうかな」
「店? 何か副業でもやってんスか?」
「実家が瑠璃屋っていう呉服屋でね。普段は妻が切り盛りしてくれているんだけど、友達と旅行中で留守なんだ」

 瑠璃屋といえば江戸では名の知れた大店だ。全国からはるばる買い物に来る客が多いのも知っている。が、それよりこの男が妻帯者だという事に驚いた。女っ気がないのにしっかり所帯持ちとは……きっと細面の美人妻なのだろう。もしかしたら可愛い妻かもしれない。店の評判によれば明るくて商売上手でしっかりした江戸女だと噂されていた気がする。江戸女と一口に言っても個々様々、姉達のような女にあるまじき女ではないことは確かだろうと推測した。

 勝てば真剣勝負、負ければ蔵整理。
 片付けなんぞ頼んでくれればいつでも手伝う。ゆえにここは勝っておくべきだ。
 じっちゃんの名にかけて、否、じっちゃんは酒の呑みすぎで死んだのだ。縁起が悪いと思い直し、自分の名にかけてこの男を酔い潰すと誓った。




 目が覚めるとそこは天国だった。
 蜘蛛の巣の張った天井、カビ臭い布団、妙に狭い部屋。
 家を飛び出したのは夢だったのだろうか。
 隠密衆に入って酒を呑み、呑みまくり、蔵整理がイカレた甘美なパンダ───

「おはよう。よく眠れた?」

 分断された記憶を必死に繋ぎ合わせていると、誰かが顔を覗き込んできた。

「……これは美人のお兄様」
「それはどうも。今日手合わせするんだよネ。朝食の前にやろう」

 手合わせ───胸の前で手を合わせてみる。何か違う。

「ほら起きて。着替え手伝ってあげるから」
「呉服屋です……」

 何がなんだか分からぬまま無理やり起こされ、ガンガンする頭に唸りつつ着せられていく服に身を通して立ち上がった。足がタコのようだ。腰に帯を巻かれ、内臓が飛び出るほどきつく締められる。

「うん、なかなか似合うヨ」

 思考も定かでない耳に美しいお兄様の上機嫌な声がいやにはっきりと聞こえた。引きずられるようにどこぞへ連れて行かれ、燦々と輝く太陽の光が顔面を直射して目が眩む。
 ガシャン、と金属の音がした。
 金網が見える。巨大な金網の檻だ。俺は虎になったのだ。




「あ、おはよう保くん。よく眠れた?」
「……ああ」

 顔を洗いに外へ出ると相方の圭祐が井戸水を汲んで桶に入れていた。同室なのに彼が起きたことも知らず、酒に潰れて爆睡していたらしい。完全に潰れると分かっているので量は控えたが、それでもやはり二日酔だ。

「なんで水なんか汲んでるんだ?」
「宏くんが半死人になっちゃって」
「高井さんだっけ……そういえば結構呑んでたもんな」
「じゃなくて、甲斐くんと手合わせして滅多斬り」
「…………」

 何と言えばいいのか、不運の二文字に尽きる。
 上杉の後任として虎卍隊の班長に任命されたのがまず不運だ。さらに隆との呑み比べであっさり負け、泥酔したまま運ばれた先はもちろん甲斐と箪笥を隔てた一繋がりの部屋。隣の部屋の住人によるとものすごい鼾だったというから、同室者の心境は推し量るまでもない。
 入隊一日目にして手合わせという名の一方的な私刑を食らった宏幸に保智は同情した。



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