虎子耽々


二、

 何が何でも隠密になりたいわけじゃない。そもそもどんな仕事をするのかさえ知らなかった。ときどき大名行列のようにして町を歩く隠密衆を見たことがある程度で、幕府の犬である彼らが目と鼻の先にいる限り天下の膝元で謀反が起こる事は滅多にないのだ。知る者はその顔と人柄を知り、知らぬ者は何も知らない。それが城下町での隠密衆の存在だった。

 ただ、一度だけ隠密衆の人間がこの町で刀を振るうところを見た事がある。
 何年前だったか、増上寺の住職に届け物をしに行った帰りだ。燃えるような夕焼けに照らされた小道の脇で女の悲鳴と男の笑い声が聞こえた。蒸れた草むらを這ってこっそり様子を窺うと、まだ十にも満たなそうな少女が太った男に帯を剥ぎ取られているところだった。
 もし自分が刀を持っていればすぐにでも飛び出したのだが、住職に会うのだから刀は置いていけと父に言われて丸腰の身。相手は刀を佩いている。いくら喧嘩上等でもあの巨漢に真っ向から突っ込んでは勝ち目がない。
 何か武器になるものはないかと目を走らせた時、視界の端を黒い影が過ぎった。
 あっという間だった。
 巨漢がよろけたかと思うと、首から血飛沫をあげて倒れた。その血溜まりに長い影が重なり、一人の男が少女へと近づく。男の顔を見た少女が「あっ」と声をあげた。そして確かに「煙狼隊の本条様」と言った。“えんろうたい”とは何ぞやだったが、後で父に聞けば隠密衆の一隊で本条と呼ばれた男はその隊長だったらしい。
 少女のそばに屈んで帯を直してやっていた本条某は、一瞬だけこちらに視線を向けた。草むらでじっとしていた自分に気づいたのだろうか。真意は分からないがそれきり気に留める様子もなく、彼は少女を家まで送っていった。

 自分が隠密衆について知っているのはそれだけ。
 音もなく現れて巨漢の首を切った本条某はまだ隠密衆にいるのだろうか。
 いれば一言、あの日草むらにいたのは自分だと話してみよう。




「なんだ上杉、まだいたの」
「後釜を拝見して行こうと思いましてね。シバさんはどれがお好みですかい?」
「どれでもいいヨ。骨のなさそうな奴ばかりだ」

 江戸城内、隠密衆のねぐらである衛明館に隣接されている鉄壁の檻『我躯斬龍』の周囲は暢気なものだった。暢気というより気が抜けている。
 それもそのはずで、隠密衆は今年御頭が代替わりしたのだ。黄金期を築き上げた御頭・葛西浄正が隊士と御上の猛反対を捻じ伏せて辞職し、取って代わったのは平隊士よりも出来の悪い浄正の息子・浄次だった。七光りだけが取り柄の新頭に愛想尽きて辞めた隊士は数知れず。辞めずに留まった隊士たちはほとんどが気の抜けた状態で、昨年までは緊張感のあった入隊試験も今年は力が入らない。

「今年は退屈だねえ、圭祐」
「そうですね。でも見込みのありそうな人が何人かいますよ」

 退屈といいながら面白そうに眺めている隆に、圭祐が目線だけで該当する人物を示す。その誰もに隆は満足そうな返事をしなかったが、最後に示した人物については顔を緩めた。

「あの虎の子みたいな彼は生き残るかな」

 薬剤で脱色したのだろう黄色い獅子頭に山吹色の半袖、黒いズボン。第一試合を難なく通過し、第二試合の組み合わせ待ちで地べたに胡坐を掻いている。
 圭祐は名簿録をめくって読み上げた。

「えーと、高井宏幸さん十八歳。出生・出身とも四谷だそうですよ」
「ちゃきちゃきの江戸っ子か。喧嘩上等って感じだね」
「刀捌きも悪くはないですけど、第二試合は相手次第で落ちるでしょう」

 人斬りに慣れた腕でもなければ剣術は型通り。どこかの道場で習ったのだろう。しかし体術の方はなかなかのものだった。身の躱しが早くて上手い。相手の動きを見て正確に先を読んでいる。喧嘩慣れしている証拠だ。

「圭祐はどっちに賭ける? 俺は第三試合で降参すると思うな」
「誰を指名してですか?」
「早矢仕か沼田か、あるいは圭祐」
「僕は第二試合で引き分けに賭けます」

 斯くして、二人の賭けはどちらも的を外れた。




 人を斬ったことはある。だが死に至らしめたことはない。
 殺すことがこれほど単純で呆気なく、しかも後味の悪いものだと初めて知った。後味が悪いといっても相手に申し訳ないと思ったわけではない。隠密衆に入ればいつ死ぬとも分からないのだ。たとえそれが入隊試験であっても。
 宏幸は刀を収めて額の汗を拭った。そうと知らずに隊長格の人間を指名し、相手が降参を申し出たにも関わらず「男なら決着がつくまでやれよ」と一蹴して勝ったのだが、気になるのは隊長が死んだばかりの隊にだけは行きたくないということだった。つまらないことで身辺がごたごたするのは真っ平御免だ。しかしそう願った時に限って悪い方へ当たる呪わしい運を持っている。

「すんません、どの隊に入るって決まるのはいつっスか?」

 酒だ宴だと賑やかに衛明館へ引き返す隊士の一人を捕まえ、尋ねてみた。臙脂の襟の隊服を着た男が振り返る。変な丸眼鏡を鼻に引っ掛けた、見るからに眠そうな目をした男だった。まるで瓦版屋の風体だ。

「宴会の途中で御頭が発表しますぜ。希望の隊でもあるんですかい?」
「希望っつーか、隊長のいねえ隊はやだなと思って」
「あんたが殺したのはうちの沼田隊長ですよ。といってもこないだ決まった即席隊長でしてね、これがまた使えない人で。何、問題ありませんや」

 そりゃ大問題だろう。何を言っているのだこの男は。また隊長を決めなければならないのにえらく暢気だなと呆気に取られる。丸眼鏡の男は笹の葉をちぎって咥え……否、ちぎった笹の葉を食いながら懐に片手を突っ込んだ。瓦版屋改めパンダとでも名づけよう。

「シバさんが隊長になったら面白いんですがねぇ。ま、俺には関係ないことで」

 何を言っているのかまったく分からない。

「あんた、虎は好きですかい?」
「はい? 虎……?」

 服装が虎っぽいせいか、獅子頭のせいか。とりあえず頷くとパンダは眼鏡の奥で笑った。

「ここは虎の巣窟、食うも食われるも運次第。あんたが虎の子を取りに来たのか虎の子なのかはさておき、正直であれば上手くやってけるでしょうや」

 どういう意味だと聞こうとしたが、丸眼鏡のパンダはまた笹の葉をちぎって衛明館とは逆の方向へ歩いていってしまった。飄々としてて掴みどころがない。

(あいつと同じ隊もやだな……意味わかんねえ)

 何となく笹の葉をちぎって口に入れてみたが、その苦さに負けて吐き出した。

「大丈夫? 具合悪くなっちゃった?」

 屈んで唾を吐いているところへ竹筒が差し出される。顔を上げると、女なのか男なのか判別のつかない隊士がにっこり笑った。具合が悪いのかと聞きながら笑顔を浮かべるその性格はどうかと思う。

「笹の葉を食ったらまずくて吐いてただけっス」
「おなか空いてるんだね。もう御膳が並んでるから中へどうぞ」

 誰も腹が減ったとは言ってないのにあっさり直訳された。声も中性的で性別不明だが、胸がないところを見ると男なのかもしれない。あるいは育ってないだけか。自分より年下であることは間違いないと宏幸は思った。

「あ、僕の名前は下谷圭祐です。よろしくね」
「ども、高井宏幸っス」

 けいすけ……どうやら男らしい。おまけに立ったら自分と同じ背丈だった。何か悔しい気もするが、姉の一人が自分よりでかいのでもう少し伸びるはずだ。父もでかいのでもっと伸びるに違いない。そんな事を考えている間、圭祐なる青襟の隊士は入隊試験の事を喋っていた。

「宏くんは江戸っ子なんだね。兄弟は何人いるの?」
「姉貴が四人。てか、宏くんって何スか……」
「宏幸だから宏くん。嫌?」
「や、いやじゃねーけど呼ばれ慣れないから背中がむず痒い」
「じゃあ慣れてね」

 細い外見のわりに太い神経をしている。
 腕前のほどは知らないが、こいつとなら同じ隊でもよさそうだ。

「そうだ、僕には敬語使わなくていいよ。隊長でもないし普通に話して」

 なかなか話の分かる奴だった。こういう人間は嫌いじゃない。

「おめーは兄弟いんの?」
「兄がいたけど亡くなったよ。両親とも死別したからここが家みたいな感じ」
「ふーん……薄倖な家系だな」
「でも珍しくはないでしょ。隠密衆にも家族がいない人は多いしね」

 つい五日前まで家族と騒々しい生活をしていた自分は、もしかしたら場違いなところに来たのかもしれない。それでも入隊まで漕ぎ着けたからには二度と家には帰らないと誓い、宏幸は虎の巣窟に足を踏み入れた。



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