虎子耽々
一、
「宏幸ーッ!!」
早朝、姉の怒声が廊下にこだました。枕に足を載せて逆さに寝ていた宏幸は俄かに跳ね起き、あたふたと布団を跳ね除けて窓から外へ出る。使い古された銭袋と愛刀・各務を懐に抱きしめ、朝露に濡れた雑草を踏み分けながら盗人のようにそろりと裏戸へ回って閂を引いた。
しかし、惜しくも戸を開けるまでには至らず。
「お前の大事なもんがどうなってもいいんだ。あーそう、ふーん」
堪忍して振り返れば、二番目の姉・馨が仁王立ちでふんぞり返っていた。女のくせに背が高く肩幅があるので男物の着物を身につけ、髪は牛若丸かという感じに一本でまとめている。この姉の頭に関しては簪一本刺さっているのを見たことがない。要するに男勝りなのだ。
他の姉についても同様で、それ故に未だ嫁のもらい手がないんだろうと常々思うが口に出しては言わない。というか、言ったら後がない。
「……今日は何だよ?」
「は? 『何だよ』? お前いつからあたしにそんな口利けるようになったの?」
「今日は何用ですか馨姉ちゃん!」
「寝る前に風呂釜を洗っておけっつっただろ、この阿呆!」
毎度のことだが遠慮のかけらもない力で拳骨を落とされた。蹲って頭を押さえた拍子に銭袋と刀を落としてしまう。そして宏幸は声にならない悲鳴を上げ、鞘と柄が分離した愛刀を手に取った。
「は、は……刃がねえっ!」
「だから大事なもんがどうなってもいいのかって言っただろ」
いつの間に刀を摩り替えたのか、愛刀だと思っていたそれは刃のない柄を鞘に差し込んであるだけのガラクタだった。重さに気づかなかった自分も馬鹿とはいえ、姉のやることはいちいち最悪だ。
「風呂洗っておかなかった罰。各務は預かる」
「俺が悪うござんした! 頼むから返してくれよ、大事な刀なんだよ!」
「悪いと思うなら最初っからサボるんじゃないよ!」
「だって眠かったんだも……ッぐあ!」
容赦ない回し蹴りを喰らい、宏幸は情けなくも簡単に吹っ飛んだ。
「そんでメソメソしてんのかよ。おめぇ、姉ちゃんたちに勝てなくてどうすんだ」
高井家の家長・昌宏は足で座布団を引き寄せ、どっかりと胡坐を掻いた。
「メソメソなんかしてねぇよ! あだだだ、綾姉ちゃん痛ぇっ」
「男が痛いなんて言わないの。あとは肘?」
消毒薬が擦り剥いた肘と背中に沁みる。メソメソしているのはそっちの痛みにだ。
一番上の姉・綾は、宏幸にとって母親代わりでもある。母は宏幸を産んですぐこの世を去った。その時すでに十四歳で嫁ぎ先も決まっていた綾が弟の世話をするのだと言って先方と婚約解消し、今に至る。
宏幸には四人の姉がいて、綾とは十四歳、馨とは十一歳、三番目の凪とは七歳、四番目の栞とは六歳離れたいわゆる末っ子長男だった。
「はい終わり。お風呂洗ってらっしゃいな」
「……あい」
しかめっ面のまま立ち上がり、宏幸はやる気なく風呂場へ向かった。
産みの母を知らず年もだいぶ離れているせいで、綾は姉というより育ての母だと思う。事実今も家計をやりくりしているのは綾で、父の昌宏は初対面の人に「若い奥様ですね」とよく間違われていた。自分の面倒を見る為に婚約を解消した姉はそれきり嫁ぐ気配もない。
風呂釜を洗いながら、宏幸は頭の上がらない長姉のことを考えた。
恐らく亡き母に似ているのだろう細面の小さな顔は皺ひとつなく、実年齢よりかなり若く見える。そもそも高井家の女達は同年齢の女に比べて若すぎるのだ。その原因はいい年をして家庭に入らず苦労を知らない故か、好き勝手に暮らしている故か───どちらも同じことだが、結局宏幸には判断がつかなかった。ただ確実に言えることは、彼女たちの趣味は弟をいびり倒すことである。
「勝てねぇわけじゃねんだけどな……」
独り言を呟いて風呂釜に水を掛けた瞬間、宏幸は頭からその中へ落下した。ゴーン、と寺の鐘のような音が響き渡る。
「朝から精が出るわねえ、宏幸ちゃん」
「ついでに廊下も掃除しといて。足の裏が埃っぽいわ」
声の主、凪と栞がご丁寧に釜の蓋まで閉めて去って行った。彼女たちに尻を蹴られて突き落とされた宏幸はしばらくして風呂蓋を跳ね飛ばし、ドスドスと足音を立てて外の井戸へ向かう。桶に溢れるほど水を満たし、玄関へ回って框から廊下に勢いよくぶちまけた。
「宏幸ッ! 何やってんだよお前、あたしの部屋が濡れただろクソ!」
「うるせえ馬鹿!」
「質屋に刀売り飛ばしてやる!」
もう嫌だ。俺は召使いじゃない。
桶を放り投げて自室に行き、片っ端から箪笥を開けて適当に荷物をまとめる。
せわしなく荷造りしているところへ、足音もなく綾が入ってきた。
「そこへ直りなさい、宏幸」
部屋の真ん中を指差し、綾は口答えを許さぬ声音で弟を待つ。宏幸は観念して渋々荷物を置いた。言われた場所に正座した途端、ピシャリと平手を喰らって涙が出そうになる。
「廊下に水を流すとは何事ですか。今すぐ拭きなさい」
「俺もうやだ。出てく。こんな家、二度と帰ってこねぇ」
行く当てはあった。
折りしも季節は初夏。五日後に江戸城で行われる行事に参加するつもりだ。前々から考えていたのだが、今こそ行動に移す時だと宏幸は固く口を結んで綾を見上げる。綾は無言でこちらを見下ろし、おもむろに懐から一枚の紙を取り出した。
「それじゃあ、一筆書いていきなさいな」
「……何を?」
「遺書に決まっているでしょう。宏幸がどこかで死んだら役所に見せるのよ。弟は自らの意志で死にました、っていう証拠がないとお金がもらえませんからね」
引き止めもせず何処へ行くのかとも聞かないあたりがさすが高井家の女だった。
「何だ、宏幸は家出すんのか?」
「あらお父さん、ちょうど良かった。墨と筆を貸して下さいな」
「おお、待ってろや」
父までこの有様だ。荒い鼻息も消え失せ、宏幸は呆気に取られて畳に手を突く。
「十八にもなって家出。世間の恥だわねえ」
「ちょっと綾ちゃん、宏幸が壊した風呂の蓋の修理代もらっとかなきゃ」
どこから沸いたのか下の姉が口々にそう言い、馨までもがその後ろに姿を見せた。
「家出すんだって? 山には行かない方がいいよ、獣に食われるのがオチだ」
「山賊に襲われる可能性もあるわねえ。貧乏ったらしい格好していきなさいよ」
「銭は置いていきな。身の為、身の為」
この人らは弟を何だと思っているのだろう。宏幸は何とも言い難い疲労感に襲われる。
懐の銭袋を取ろうとした馨の手を振りほどき、立ち上がって手を突き出した。
「つーことで俺の刀。返せよ」
「あ? 誰にモノ言ってんだよ」
「刀を返して下さい馨お姉様!」
土下座して頼むと、馨ではなく凪の声が降ってくる。
「馨ちゃん、返してあげたら? じゃないと一向に出て行かないよこの子」
まるでさっさと出て行けと言わんばかりの冷たいお言葉。自分から出て行くと啖呵を切ったのだが、事態はすでに姉達が自分を追い出そうとしている方向に思えた。生まれて十八年、毎日がこの調子である。墨と筆を持ってきた父でさえ引き止めてくれない。
綾が差し出した紙に「おせわになりました」と書き、母印を押して父に渡した。
「じゃ元気でな。人様と死人のもんは盗むなよ」
父は笑顔で手を振り、家出する息子にそんな教訓をくれる。
馨が投げ寄越した愛刀を握り締め、宏幸は微妙な心境で家を出て行った。
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