天上の花


三、


 秋の彼岸に入ると、庭は毎年一面の彼岸花で覆われた。
 昔の家の庭から球根を掘り上げて移したのだ。そのぐらい父のお気に入りだった。
 初めてこの花を見た時、どちらが先に正体を暴けるか競争した。結局は交友関係の広い父が勝ったのだが、教えてくれたのは通りすがりの修行僧だったという。仏教では曼珠沙華と呼び、本来は白い花の事らしい。
 赤でも白でも、その姿は未だに好きになれなかった。


「二十歳の誕生日おめでとう、ゆえ。今年は何が欲しい?」

 毎年そう聞かれては返事に困り、昨年からは父を困らせてやろうと意地悪い望みを言うようになった。

「では父上の才能を全部下さい」
「またそういうこと言う……。ほんとに欲のない子だね」

 父への苦言ならいくらでも出てくるのだが。

「たまには美味しいものでも食べに行きましょう」
「ゆえが作ってくれるご飯が一番美味しい」
「誕生日祝いなのに私に作らせるおつもりですか」

 降参とばかりに寝転がった父の尻を叩いて掃除の邪魔だと追い出す。
 贅沢は昼食がいいか夕食がいいかと聞かれ、夕食と答えた。

「じゃーぼく田辺のおばあちゃんとこ行ってくるよ」
「寄り道せずに帰ってきて下さいね。八つ半に金子様がお見えになりますから」
「はーい。そうだ、彼岸花を持ってってあげよう」

 家じゅうの戸を開け放つと、稽古場の向こうに見える彼岸花が一際目についた。赤い海を泳ぐように手土産の花束を作っている父の姿もやがて消える。
 掃除は父がいない方がやりやすい。今のうちにさっさと済ませてしまおう。
 どうせすぐには帰ってこないだろうが。






「無礼者!」

 のどかな昼下がり、突如として馬の嘶きとともに男の怒声が響く。
 町人のざわめき、子供の泣き声、転がる手毬。

「旗本平泉様の馬を妨げるとは愚にも付かぬ阿呆者よ。この場で斬り捨ててくれるわ」

 年端もいかない童女に刀が向けられた。泣き声がぴたりと止む。
 顔を覆う者、目を背ける者はいても、誰ひとりその場を動かない。

「お待ち下さい。萩本寛七郎様」

 否、ひとりの男が進み出た。
 赤い花を手にしたその男を見て、町人の誰もが瞠目して息を呑む。
 一見して身分の分からない素朴な身なりではあるが、甘栗色のこざっぱりとした髪や整った風貌、すらりと伸びた背筋のいい佇まいは町人のそれとは異なっていた。

「某、斗上瀞舟という者でございます」
「斗上? ああ、噂に名高い『阿修羅』の男か」

 男は旗本一行を前に膝も折らなければ自分の噂について諂う事もしない。

「城下でもないこのような田舎に刀は似合いませぬ。お収め頂きたい」

 子供を庇うように毅然と立ち、萩本の刀を素手でついと押し下げた。
 馬上の主の舌打ちを聞いた萩本が男の手を乱暴に払いのける。

「たわけた事を。馬を妨げる者は赤子でも斬る。それが分相応というものだ」
「分相応、ですか。ほう」

 男は場違いなほど穏やかな微笑を浮かべ、背に庇う童女の手を取って引き起こした。
 転がっている毬を手渡し、そっと肩を押す。
 童女はすぐ脇の軒下から真っ青な顔でこちらを見ていた女の懐へ飛び込んだ。

 見届けた男がゆっくりと目を伏せる。


「元気に駆け回る子供を善しとせずして、何が為の世でございましょう」


 町人の顔色が変わった。
 言ってはならない事を───最もしてはならない事を……。



「ならば貴様の命を代償としてやろう」


 男の首が、宙を飛んだ。






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