天上の花


二、


 十七になった時、父に引越しを勧めた。
 海沿いの閑寂な田舎であるこの土地周辺を藩主が近々拓くつもりでいるらしく、あれこれ何癖つけて徴収などとつまらない手を打たれる前に出て行った方がいい。
 そう話すと父はあっさり首を縦に振り、どこへ行きたいかと訊いてきた。
 父自身はどこがいいのか逆に問うと、一緒に暮らせればどこでもいいと笑う。
 弟子の数は諸所数千人、一流の門を構える当主がずいぶん気楽な考えで、けれども一方ではその純粋な心理も汲み取れた。

 父にとって、家業は守るべき財産ではないのだ。
 土地を移ることで不便を感じた弟子が減ろうと気にしない。たとえ一人も来なくなって流派が消えようとまったく意に介さない。
 その理由は父の答えが物語っていた。

 『一緒に暮らせればどこでもいい』

 だからこそ自分が動かなければならないと悟った。
 父の愛情に慢心していたら自分の代には畳一畳・米一粒も残らないだろう。




「まさかうちの近所に瀞舟様が越してくるとはな」

 数軒隣の葛西家の嫡子・浄正とは年が近く、共に一人っ子という奇縁もあってよく会う仲になった。というより浄正が父の作品を見たいが為に来るようになった。

「俺はまだ隠密衆に籍を置いてないが、城にはしょっちゅう出入りしてるんだ。瀞舟様が引っ越してきたと言ったらみんな驚いてたぞ」
「いずれ知れる事。驚くには値せぬ」
「斗上は爺臭いな……本当に四つしか違わないのか?四十ぐらい違う気がする」


 相模の海沿いから内陸に拠点を移して早三ヶ月。
 江戸との境目にあれば弟子の数も増えるだろうと目論んだ通り、江戸からやってくる希望者が圧倒的に多かった。元いる弟子の大半も通うのに不便はない。
 ひとまず土地は落ち着き、あとは父次第だ。

 父は稽古時間外になると町を出歩き、生活に困っている者や病気を患っている者に出会うと家族同然に接して方々を駆け回る。大金をくれてやる事も少なくなかった。おかげで今や道行く先々で仏様と拝まれている。
 反対に自分は必要以上に他人と関わる事を避けた為、好く思われてはいない。
 同じ事をしても二番煎じでしかないと思ったからで、それよりは早く父の腕を超えたいという思いが強かった。

 しかし物心ついた時から父と自分は根本的な観点が違ったらしく、父もそれが分かっていたのだろう、基礎は教えてくれたが活け方の手本は見せてくれなかった。
 弟子にもそうだ。花の切り方や挿し方といった基礎だけ教えて自由に活けさせ、個人の着眼点を評価する。
 流派の型にこだわった先代当主とは真逆に、父は型を破りすぎていた。
 自分の代にはどうするか悩ましい問題だ。


「十代目瀞舟といえば伝説の人だぞ。驚かない方がおかしい」

 花に興味があるわけでもないのに浄正はやたらと父を崇拝してくれる。

「さて、私にとっては父親以外の何者でもない。浄正もそうだろう。御父君は雷神と畏れられる隠密筆頭、それをすごいと驚くか?」
「……驚いた事はないな。隠密衆を率いるのは当たり前だし、強くなきゃ意味がない」
「ほらな。父の仕事や功績は当然であって驚く事ではなかろう」

 自分とは対照的な性格だからか、彼は退屈しない存在だった。
 齢十三。
 よく日に焼けた精悍な顔立ちの少年で、年のわりに立派な体躯をしている。背もほとんど違わず、数年後には人目を引くいい男になっているだろう。
 唯一欠点があるとすれば少々真面目すぎるところか。
 同じ年頃の子供とは違う環境にいるせいで、ときどき背伸びした頑固な面が目立つ。

「ところで将軍に献上したという伝説のあれ、お前は見たのか?」

 あれ、とは父の出世作になった『阿修羅』だ。
 将軍・家綱が花を欲していると聞き、全国から華道家元が集まって競い合った。花型は自由、ただし花と器は全員同一のものを使う条件で、誰も彼も似たり寄ったりの作品になった。
 ただ一人、同じ花を使ったとは思えない奇抜な作品を仕立てたのが十九歳の父だった。
 作題を問われた父は、無邪気な笑顔で「阿修羅でございます」と答えたらしい。

「十五年前の話だ。見たとしても二歳の記憶はない」
「あ、そうか。しかし将軍を前に『この世の相を表した』とは恐れ入る」

 城の天狗には貧しい民の姿が見えているかと言わんばかりの奇怪な花姿。
 まだ幼かった将軍に対し、父が何を思ってそんな作品を献上したかは謎のままだ。
 本人に聞いても当時の心境など覚えていないという。

 ひとつ確かなのは、父は身分の格差を何よりも疎んじているという事。
 人として生まれたからには驕る者も困窮する者もいてはならないと考える。
 日頃の行動はそうした信念に基づいていた。だから贅沢も好まない。
 作風もそうだが、性格がまた風変わりで人の心を掴むと見える。



「ゆーえー。ただいまー」

 足音を立てて稽古場に入ってきた父は、大きな風呂敷をぶら下げたまま浄正を見止めてぱっと顔を輝かせた。

「いらっしゃい浄正。ちょうどよかった、田辺のおばあちゃんがたくさん葛餅を作ってくれてね、二人じゃ食べきれないから半分持ってってよ」
「田辺のおばあちゃん……?」

 浄正が鸚鵡返しに訊くと、父は台所を往復しながら「二つ裏の路地をまーっすぐ行った突き当りの家のおばあちゃんだよ」と簡素に説明する。まるで分からないといった風に肩を竦めた浄正は、父の作品は好きだが性格は苦手のようだった。

「一人暮らしの女性でな。足腰が弱くて出歩けぬので、父が世話をしに行っている」
「ほう、縁のある家か。それでこっちに引っ越して」
「いや。赤の他人だ」
「……何というか、本当に人のいい親父だな」

 十三の子供から見ても呆れるほどのお人好し。それについては沈黙で肯定した。
 葛餅を包んだ風呂敷を渡され、ついでに食べていけと言われた浄正は素直に頷く。

「ね、浄正のお母さんが嫌いな花って何?」

 縁の下に伸ばした足を揺らしながら父が聞くと、浄正は難しい顔で手を止めた。

「特に母とそういう話をしたことがないので……どうしてですか?」
「体が弱くて外に出られないんでしょ。花でもあれば気が紛れるかなぁと思って」

 活けて届けようと思うが嫌いな花を使ったのでは逆効果になると言い、今度来るときまでに聞いておいてとまくしたてる。
 すると浄正は急に背筋を伸ばして菓子皿を脇に置いた。

「瀞舟様の作品を頂けるんですか!? 今…今すぐ母に聞いてきます!」

 叫ぶなり庭から駆け出していった浄正に、父は一寸遅れて笑い転げる。

「浄正って正直で良い子だね。あれが未来の隠密衆か」

 良い子だと褒めながらもどこか笑っていないような目に気づいた。
 ごく稀だがそんな横顔に気づいてしまうと、理由もなく胸がざわつく。

「───何か案ずる事でも?」

 しかし父はいつも通りの顔をこちらに向け、その目を細めた。

「ゆえは浄正のお兄ちゃんだから、彼が困ってる時は助けてあげるんだよ」



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