十二.


「さて、帰るか沙霧」

 饅頭を十個近く食べ、夕食を四杯お替りした浄正は、満面の笑みで沙霧の袖を引っ張った。

「今日辞めるんだろ?」
「お人形さん、ぼくと帰るの」

 沙霧が口を開こうとした時、浄正の反対側から命が袖を引っ張って抗議する。
 浄正の眉がぴくりと跳ねた。

「このお人形さんはおじちゃんの家に帰るんだよ」
「ぼくのおうちに行ってカメさんを食べるんだもん。ね、お人形さん?」

 袖を掴んだまま沙霧の膝に乗り込んだ命を、浄正はあからさまに不満そうな顔で見下ろす。皓司や圭祐が内心でひそかに予測していた通り、四十四歳の差を取っ払って浄正と命が沙霧を取り合い始めた。

「ぼくのだよー!」
「おじちゃんの!」
「おじちゃんはお人形さんひとつ持ってるのにずるーい!」

 命は沙霧にしがみ付いて駄々をこね、目の高さにある豊満な胸へ顔を押し付ける。隊士の呆れ顔が一面に広がる中、浄正は周囲に目もくれずに本気で争奪戦を続けた。両手を広げて命に見せ、袖の裏まで返してみせる。

「どこにおじちゃんの人形があるんだ?ほーら、何にも持ってないぞ」
「そこ」

 命が迷いもなく自分の父親の隣を指差して言う。
 隆と話していた皓司は視線だけを命に向け、次いで浄正の方を冷やかな目で見遣った。
 浄正は命と同じように皓司を指差し、あれはな、と声をひそめて命に告げる。

「あれは男の人形なんだよ。つまらないじゃんか」
「どうしてつまんないの?」
「そりゃ例えば夜の……」
「こらこら、命。浄正おじちゃんに質問すると怖い夢を見ておねしょしちゃうよ」

 浄正の言葉を皆まで言わせず、隆が教育的指導とばかりに差し押さえた。黙っていた沙霧は呆れ返って溜息をつき、深慈郎を呼んでそっと耳打ちする。隊長の用件に目を丸くした深慈郎は、それでも首をぎこちなく振ってから「ちょっと厠へ…」と挙動不審な態度で広間を出て行った。



 沙霧から言付かった物を手にすると、深慈郎は次に台所の隣へと向かう。手にした小瓶を握り締め、何の為に必要なんだろうかと首を捻ったまま歩いていた。

「あのー、すみません」
「あ、外山さん。どうしたんですか? また先代がお饅頭とか?」

 侍女達が休憩する場所として使われている一室を開けると、ちゃぶ台を囲んで談話していた女が一斉に深慈郎へ注目する。滅多にここへ訪れない深慈郎は、女だらけの光景に狼狽して頬を赤らめた。

「えと、金平糖ありますか?」
「金平糖なら御姉様にもらったのが残ってますけど。外山さん金平糖が好きなんですか?」
「は……? い、いえ僕じゃなくて、その御姉様がもらって来いとおっしゃられたんです」

 侍女達から「御姉様」と呼ばれている沙霧の用件を伝えると、侍女達は疑わしげに深慈郎を上から下まで眺めた。それから一人が立ち上がって茶棚の中の金平糖を出し、仕方なしという風に深慈郎に渡す。
ネ 「最後の一袋なのになぁ。もったいないなぁ。誰か御姉様に頼んでくれないかなぁ」

 侍女の言葉に、深慈郎は頭を掻きながらその意味を理解した。

「僕から沙霧様に伝えておきます。それじゃ、どうもありがとうございました」

 その後、侍女達の間で「外山さんて結構使えるわよね」とひとしきり話題にされた事など、当人は知らない。深慈郎は広間へ向かう間に、小瓶の中の粉を金平糖へまぶして袋をしゃかしゃかと振った。細かい粒子の粉は金平糖の表面に付いた砂糖としか見えない。

「……で、この粉は何なんだろう」



 光琉と命、浄正と皓司の二組は、隊士達に見送られながら衛明館の外へ出ていた。

「お人形さん、ぼくのおうちに行こうね」
「いーや、お人形さんはおじちゃんちに行くの」

 沙霧の横にぴたりとくっついて離れない大小の影が灯篭の下で止まる。命は後ろを振り返り、闇夜に青白く浮かぶ皓司の顔を見上げた。

「蝋人形さん、おじちゃんとふたりでかえりたいよねぇ?」
「おいおい坊主。おじちゃんの人形に誘導尋問みたいな事するなよ」

 皓司はふと笑い、その横から痺れを切らした光琉が大股に歩み出る。

「あんた達、いい加減にしなっつの」

 浄正と命の手を強引にもぎ離すと、光琉は沙霧の肩に腕をかけた。

「沙霧はあたしのもん。それで文句なし」

 大小が文句を言おうとしたところで深慈郎が到着する。
沙霧は金平糖の袋を受け取り、隊士達が一斉に色めき立つような微笑を命に向けた。

「命のおうちに行くよ。でもその前に、このおじちゃんと仲直りしようね」

 浄正と命が揃って首を傾げる。
 沙霧は金平糖の袋を命に見せてから、二粒をその手に乗せてやった。

「一個は命からおじちゃんにあげるんだよ。それで仲直りしたら、命のおうちに行こう」
「うんわかった。はい、おじちゃん」

 命から金平糖を受け取った浄正は、表面についている白い粉をじっと見て眉根を寄せる。沙霧は微笑したまま、命と浄正が同時に口に入れるのを眺めた。

「おいしいね、おじちゃ……」

 金平糖を噛み砕いて飲み込んだ命が、ふいに力を無くして前に倒れ込む。深慈郎がうわっと声を上げて真っ青になった。例の小瓶は、他ならぬ毒薬作りを得意とする沙霧の部屋から持ってこいと指定されたものだったのだ。その粉を金平糖にまぶせと言われたのでそうしただけの事だったが、深慈郎は今この瞬間、自分が命を毒殺してしまったと焦って圭祐に飛びついていた。

 命を膝で受け止めた沙霧は、ひょいとその体を抱えて光琉に渡す。

「適当に言い訳しておいてくれ」
「適当にって、あんたね……」
「明日の朝には薬が切れるから、よろしく」

 光琉は肩を竦めて息子を抱え直し、沙霧にぴしっと指を突き立てた。

「辞めたらうちに来なよ。あんたの服を作るのがあたしの生き甲斐なんだから」
「沙霧は俺んとこに来る約束だからダメ」

 命と一緒に金平糖を食べたはずの浄正が、沙霧の横に立って光琉の指を押し返した。なんでこいつは寝てないの、という光琉の不満そうな顔に、今度は沙霧が肩を竦める。浄正は得意そうに鼻を鳴らし、にやりと笑った。

「あの程度の眠り薬、俺には効かないもん」
「というわりには目が眠そうじゃないですか。御頭」
「眠くない」

 指で自らの目を開いてみせる浄正を、沙霧は重々しい溜息と共に遠ざけて踵を返す。


 その行く手には、龍華隊の隊士達が最初から砂利に手をついて頭を下げていた。眠り薬だったと分かった深慈郎は、一寸遅れてストライキの列に加わる。龍華隊の中でただ一人、冴希だけが尊大にも腕を組んだまま傍観していた。

「隊長っ! お願いですから辞めないで下さい!」
「せめて明後日……明後日まで指揮を執って下さい、お願いします!」

 隊士の事を綺麗さっぱり忘れていた沙霧は、その光景を見てぴたりと足を止める。

「何だ、まだいたのか」
「……隊長ーっ!?」
「明後日までな。明後日まで」

 さっさと衛明館に戻っていく沙霧の背を、隊士達は鼻水を垂らしながら見送って互いの肩を叩き合った。深慈郎が冴希に駆け寄ってその手を握り、涙を浮かべてぶんぶんと振る。

「よかったですね、椋鳥さん! 足早に戻っちゃったけど、本当は照れてたりして」
「沙霧姉は寒いからとっとと戻っただけや。明日の朝にはまた辞める言うてるかも知れへんよ」
「ええっ!?」

 隊士達は冴希の一言で我に返り、沙霧を追いかけて衛明館に駆け込んでいった。

 命を抱えた光琉と、眠気を何とか紛らわそうとしている浄正、そして行灯を提げた皓司の三人は、出てこない浄次の事などカケラも気にせずに江戸城を後にする。
 その頃、浄次は自室に篭って「あいつらは一体何をしに来たんだ」と一人呟いていた。



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