十一.


 宏幸が帰ってきた途端に広間がうるさくなる。いわゆるムードメーカーなのだ。場を盛り上げる事もできればややこしくする事も可能の宏幸は、崇拝する隆の息子に「ネコ兄ちゃん」と呼ばれながら、一緒に亀をいじめて遊んでいた。誰も亀を助けてやる者がいないというのが浦島太郎の話と違う現実である。


「沙霧。明後日の能登入りだが、段取りは決まっているか」

 仕事しか頭にない浄次が尋ねると、下座でくつろいでいる隊士はうんざりした顔で溜息をついた。今日くらい仕事を忘れられないのかという意味である事は、浄次以外の誰もが承知している。
 沙霧は上司を見もせずに無表情で茶を啜った。

「葺谷山道手前より私と隊士三十名、外山と椋鳥率いる隊士八十五名の二手に別れ、山頂と村の方から大河内屋敷及びその周辺を襲撃する予定です」
「予定とは?」
「能登はかなりの積雪量でしょうから、現地の地形変化で身動きが取れない状況も考えられます。ですので先に述べたのはあくまで暫定に過ぎないという事です」
「なるほど。しかし、葺谷山道こそ雪に塞がれているんじゃないのか」
「人里離れている場所なら四神を使えますので、葛西殿に懸念して頂くには及びません」

 それ以上の質問をしてくるなとばかりに、沙霧は有無を言わさぬ語調で締めくくった。
 浄正が隣でうんうんと頷き、紅白饅頭をひょいと口に放り込む。
 宏幸と遊ぶ愛息を眺めて目元を緩めていた隆が、そこでふと首をかしげた。

「そういえば御頭、どうして貴嶺さんだけ下の名前で呼んでいるんですか?」


 突然どこからともなく殺気が湧き上がり、浄次へと一点に集中する。
 浄次の頬がぴくりと痙攣した。

「な、何を言い出すかと思えば……」
「隊士の事は分け隔てなく苗字で呼ぶのに、貴嶺さんはどうして例外なのかなあと思ったんです」

 隆が言うと、命と亀の甲羅に餅をくっ付けていた宏幸が顔を上げる。

「そう言われてみれば疑問だよな。姐御が女だからって見下してんじゃねえの」
「誰がそんな事をするか馬鹿者!」
「御頭が」
「俺は見下しているわけではない!」

 半立ちになって弁解する浄次に、相変わらず敵意の眼差しが集中していた。渋面を隠そうともせず、浄次は言い訳をする子供のようにぼそりと呟く。

「ち、父上が沙霧を名前で呼んでいたから自然とそうなったわけで……」
「現役当時、先代は仕事以外の場では皆平等に名前で呼んでおられましたが」

 皓司の持ち前である冷やかな声が浄次の脳天に刺さった。浄正は机に片肘を突き、再びうんうんと頷いて饅頭を食べる。

「俺、何に対してもヒイキしてなかったよな。皓ちゃん」
「していましたが呼称だけは平等でしたね」
「そう、ヒイキなんか何もしてない」

 皓司のトゲを素知らぬ顔で躱して頷く浄正は、息子の頭を手のひらで掴んで揺さぶった。

「なのに洟っ垂れはどーして沙霧だけ名前で呼ぶんだ。ん? お父さんの前で言ってみろ」
「申し上げた通りです! それ以外に理由はない」
「全然理由になってないから」
「父上っ! 言わせてもらいますが、俺がこの四年間ずっと名前で呼んでいる事に対して、沙霧本人から何も言われてません。つまり今更父上や寒河江から文句を言われる筋合いはないと……」
「私は不愉快です」

 一刀両断、沙霧は浄次の言葉を遮って言い放った。

「御頭は構いませんが、葛西殿に名前で呼ばれる謂れはありません」
「……御頭?」

 沙霧のこだわりを知らない宏幸は、『御頭』が浄次を指しているものと受け取って混乱する。

「姐御は先代のこと御頭って呼んでるんスか?」
「私にとっての御頭はこの人以外の誰でもないからな」

 沙霧は不躾にも浄正を顎で示し、当の浄正は大きく頷きながら息子の頭をぽんぽんと叩いた。浄次の渋面が一層険しくなる。そんな表情はいつもの事、宏幸は浄次の心境などそっちのけで話題を抉った。

「あーそっか、姐御は先代の頃に入隊してたから」
「その理由じゃない。私が葛西殿を御頭と呼ばないのは、技量においても裁量においても不十分だと思う故だ。仮に前任が葛西殿で後任がこの人だったとしたら、後任であっても私はこの人を御頭と呼ぶ」

 浄正の残した御頭業が偉大すぎたせいか、はたまた浄次が御頭にまったく向いていないのか、答えは火を見るよりも明らかだった。それを浄次は、二十年以上も御頭を務めていれば自分も父親のようになって然るべき、と思い込んで己の不甲斐なさを自覚していない。
 二十年後には沙霧も自分を御頭と呼んでくれると信じて疑わなかった。そういう不甲斐なさと己の力量を弁えていない部分を沙霧が嫌っているのだとは、浄次の石頭では推し量れないのだ。


 浄正はニタリと笑って息子の顔を覗き込み、への字に曲がった下唇をつまんで引っ張った。

「そらヒヨッコ、沙霧はなんでお前を御頭と呼ばないのかちゃーんと説明したぞ? なのにお前は自分の意見も満足に言えないのか、んー?」
「ひひうへほほ、ほーひへはへへほんへひはんへふは!」
「日本語喋れよ宇宙人」

 下唇を引っ張られたままで強引に喋ろうとした浄次は、父親の腕をもぎ離して復唱する。

「父上こそ、どうして分けて呼んでいたんですか!」
「衛明館にいる時はみんな俺の息子同然。年が近い奴はみんな俺の友人。仕事の場ではみんな俺の部下。お前みたいに「おい、そこの木偶の坊!」なんて一日中威張り散らしてたら面白くないじゃん」

 木偶の坊という言葉が飛んだ瞬間、保智の口までへの字に曲がった。それに気付いた圭祐は、忍び笑いを堪えて見なかった事にする。保智は事あるごとに隊士達から木偶の坊呼ばわりされる、生粋の木偶の坊であった。保智の反応をちらりと見てほくそ笑んだ浄正は、楽しくて仕方ないという顔で続ける。

「時に仲良く、時に厳しく、飴と鞭を使い分けながらやってくのが俺流だった。結果、俺を心から深ーく信頼してくれる隊士に恵まれたわけだ。ところがどうだ、お前の部下はいつでも反旗を翻してやるぞってな顔ぶれの奴らばっかときた。俺に言わせるとだな、お前を信頼してここにいる隊士は一人もいない。いても大して腕の良くない隊士だ。強い奴もいるが、それはお前の存在なんか米粒ほども認めてない奴だ。お前なんかいてもいなくても同じだと思ってる奴だ。分かるか?」

 浄正の演説は誰が聞いても正鵠を得ていた。
 冴希の横で真剣に耳を傾けていた深慈郎は、自分は確かに御頭を信頼しているが腕はまったく役に立たないな、と心の中で呟く。圭祐は天井をちらりと見上げ、自分は御頭を信頼してはいるがそれがどんな御頭であれ上司ならば当然の事だ、と普通に思った。下座の隊士達は浄次を一瞥して鼻を鳴らし、自分は御頭を信頼してもいないしはっきり言って俺の方が強い、と態度で表していた。保智は何を思うまでもなく、木偶の坊という一言が胸につっかかってそれどころではない。祇城は浄正の日本語が早すぎて、そのほとんどを理解できていなかった。

 微妙な空気に包まれた中、数人は浄正の言葉も聞かずに雪の降り出した庭を見つめている。
 隠居二人と光琉、命の四人を交えての夕食が終わるまで、浄次は一言も喋らず渋面に終わった。



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