六.


 浄次の部屋を出た──正確には追い出されたのだが──子供は、その名を(みこと)と言う。
 四尺にも満たない背丈は、天井をやや高めに改築した衛明館の中では猫が立って歩いているようなものだった。意図的に物を壊すつもりは決してなかったのだが、先ほど浄次の部屋で高価な壷を割った一件で、今は抜き足差し足といった具合に歩いている。
 母親と町に出かける時に厚着をさせられたおかげで寒さは微塵もない。
 見るもの触れるものがすべて新鮮で、この屋敷が江戸のどこに建っているのかは問題ではなかった。
 四歳の命にとって、新しい場所というのは探検場所なのだ。
 見知らぬものに出会い、見知らぬものに触れる事が楽しくて仕方ない。


 壁に手を触れながら歩いていくと、目の前が行き止まりになっていた。その少し手前に、見た事もない扉がひとつある。襖でもなく障子でもない、そして木戸でもない扉。
 どう表現したらいいのか分からなかったが、触れてみると驚くほどひんやりと冷たい。

「ゆきおんなが住んでるのかなあ」

 命は、普通の御伽噺より妖怪談の類が好きだった。冷たいものは雪女、という結びつきから咄嗟に浮かんだ言葉を呟き、そっと扉を横に引いてみる。
 しかし、襖や障子とは違って横には開かなかった。首を捻って上を見上げると、丸い取っ手のようなものが頭の上に出っ張っている。背伸びをしてそれに手を掛けると突然くるりと回り、命は取っ手にぶら下がったまま扉ごと中に引き込まれていた。

「……うわあ、すごーい」

 その部屋は、家具から置物から何もかもが不思議な調度品に溢れていた。正面の縁側は木や植物が茂り、その手前の棚の上に置いてある四角い透明な皿に興味を持つ。ゆっくりと近づいて見ると、透明な皿には少しばかりの水とごく小さな庭園が入っていた。その隅に、命の手よりは大きい亀が一匹眠っている。普通の亀とは違う色をしていたが、異国のような世界に亀の家があるのは不思議で、これも妖怪のひとつなのかもしれないと勝手に想像した。

「カメさんはここに住んでるの?」

 甲羅に話しかけてみると、亀は一度目を首を出して欠伸のようなものをし、また引っ込んだ。まるで返事をしてくれたように思え、命はやっぱり妖怪のひとつだ、と決め付ける。


 広い部屋を端から回ってみようと思った時、どこからともなく風が吹いて、縁側のそばに吊るされた布がふわりと舞った。その瞬間、命は息を呑んで目を見開く。
 絹を薄く透かしたような布の向こうに、大きな人形が座っていたのだ。
 母親ほども大きな、異国の人形だった。
 高潮した頬を赤く染めながら近づくと、人形の膝がちょうど自分の目線になる。膝からゆっくりと人形を見上げ、更紗のような肌に二つ並んだ目元に魅入って放心した。弧を描いて閉じた人形の瞼には、細く長い睫が生え揃っていたのだ。顔をまばらに覆っている髪は絹糸よりも美しく、これで織物を作ったらどんなに綺麗だろうかと子供ながらに想像する。
 壊さないように慎重に、そうっと手をかけて人形の膝に乗ってみた。
 膝の感触は本物の人肌のように柔らかい。
 そして、花の蜜のような甘い匂いが香っていた。

「……ふわぁー……」

 意味のない感嘆を漏らして人形の顔を眺め、顔を覆う髪を小さな手で掻き分けてみる。
 雪女だ、と命は思った。
 間近で見ればみるほど長い睫は美しく、こんな細工の人形は見た事もない。
 もし目を開けるとしたら、どんな目の色をしているのだろうか。

 白い顔に自分の顔を近づけ、指の腹で睫の先にちょん、と触れてみた。
 すると、音がしそうなほど豊かな睫がぱちりと上がり、吸い込まれるような翠色の硝子が現れる。

「わっ!!」

 人形が目を開けるとは予想もしていなかった命は、驚いて後ろへ反り返った。その拍子に人形の膝から転げ落ちそうになり、両手をばたつかせる。だが、その背は床へ落ちる事はなかった。これも予想外だったが、人形の手がすっと伸びて命の背を支えたのである。

「わ……わ……わあーっ! お人形さんうごくんだねぇ!すごいすごーいっ!」

 背を抱えられたまま、命は人形の顔を見上げて満面の笑みを浮かべた。
 硝子の目が何度か瞬きをして見つめてくる。
 その精妙な作りに感動し、ぽふっと人形に抱きついた。
 羽毛布団のような柔らかさを持つ人形の胸に、命の顔は難なく埋もれた。

「どこから来た坊やかな」

 頭の上から人形が話しかけてきたので、ぱっと顔を上げて天井を指差す。

「うえから来たんだよっ。うえの前は、くらーいみちを歩いてきたの」
「上の暗い道……もしかして、お米屋さんの裏から?」
「うん。ずーっとずーっと歩いたら、ここのお二階についたの。きれいなおにいちゃんがいて、広いお部屋にいっぱい人がいて、あと、ちょっとこわいおじさんがいたよ」

 喋る人形が面白くて、今まで見てきたものを省略して話すと、人形はふっと微笑んだ。膝に乗った命を両腕で抱えて、椅子の背もたれに寄りかかる。

「そう。何か面白いものは見つけた?」
「あのカメさん。ぼくが話しかけたらね、かお出してあくびしたんだよ。よーかいだよね」
「坊やは妖怪が好き?」
「うん、すきー」
「あの亀さんはね、神様に作られたから良い妖怪なんだよ。私の手伝いをしてくれるんだ」
「すごーい!じゃあごはんもつくってくれたりする?」
「ご飯は作れないな。亀さんは手が小さいから作れないんだと言ってたよ」
「お人形さんはカメさんとお話しできるんだねぇ!」

 人形はそこでふと子供の顔を見つめ、なぜあの男の子供がここにいるんだろうと考えた。
 見るからに育ちのよさそうな顔と、少し間の抜けた喋り方が瓜二つなので、誰の子かは分かっている。しかしその男の子供が何故、天井に続くあの隠し通路からやってきたのかが謎なのだ。まさか父親が教えたわけでもないだろう。そんな回りくどい道を教えなくても、隊士の家族なら手形ひとつで江戸城に入れる。

「お人形さん、歩けるの?」

 自分の事を人形だと思っているらしく、子供は膝の上に座ったまま見上げてきた。

「歩けるよ。物を食べる事もできるし、お風呂に入る事もできる」
「じゃあだっこして! いっぱい人がいたとこに行こうね。あと、カメさんもね?」
「いいよ」

 膝の上の子供を抱き上げて立ち上がり、亀の入った皿に近づく。

 話を聞いていたのか、亀は手足を出してちらりと恨めしそうな目を向け、

万が一子供に握りつぶされたら、面倒臭がらずに供養してくれ

 と、人語を喋って皿から這い出てきた。
 無論、それは子供には聞こえない。
 直接頭の中に話しかけてきたのだ。

「子供に握りつぶされるほど軟弱な甲羅なのか、この背中と腹は」

 こちらも喋らずに語りかけると、明らかに亀は盛大な溜息をついて器用に頭を前足で擦った。
 人間が頭を掻くような仕草に見える。

ただならん子供のようだ。何をされるか分からない
「いいじゃないか。とにかく来い」

 少し意地の悪い笑みで亀を摘まみ上げ、子供の手に乗せてやった。手のひらからはみ出るほどの大きさなので、子供は両手で受け取って亀の頭をじっと見る。亀の方も、好奇心に満ちた子供の目を見返しておとなしくしていた。

「カメさんのあたまって、どんな味がするのかなあ?」

 それは本当に純粋な疑問だったのだが、亀は口をぱかっと開けて絶句し、首を左右に振って「食ってもおいしくない」という事を死に物狂いで表現する。

「ねえねえお人形さん、カメさんが首のたいそうやってるよ!首がもげちゃいそうだなあ」

 首が折れると心配したのか、子供は自分の懐に亀を抱え、振り子のように揺れる首を押さえた。亀の珍しい慌てぶりに、人形は声を立てて笑いながら自分の部屋を出る。

「亀さんの手を軽く引っ張ると、カエルみたいに鳴いてくれるよ。やってごらん」

 その台詞にも亀は必死で首を振ったが、子供が素直に手を引っ張ったので、文句を言う前にカエルの鳴き真似をしなければならなかった。



戻る 進む
目次


Copyright©2002 Riku Hidaka. All Rights Reserved.