五.


 浄次は自室に入ると、綱吉将軍の脇に控えていた老中の一人を思い出して重々しい溜息をつく。
 何を隠そう、隠密衆を心底毛嫌いしている勝呂という男の事だ。こちらが報告する度に刺々しい横槍が入るのは承知の上だったが、食ってかかるわけにもいかない。幕府の治安を影で支えているのが隠密衆であっても、老中の地位には及ばないのだ。



「秋からこの年末にかけて、謀反の討伐数が例年より一割ほど増しております。殉職した隊士は今期入隊した者も含めて二倍に近く。誠に恐縮ではございますが、実戦に備えて隊士を養育する為の場が少ない、というのが我々の現状にございます」

 綱吉の前で圭祐が決算報告を終えてから、浄次は隠密衆の現状を伝えた。
 我躯斬龍の面積では、隊士すべてを短期間で鍛え上げる事など不可能だった。限られた面積での動き難さを前提として作られているからである。町に隠密衆の道場を構えるのは論外であり、そんなものを建てれば隠密業を一般公開するのと同じだ。かといって江戸城内に広い道場を設けてくれとは、口が裂けても言えたものではない。上から恩義で取り計らってもらうのを待つしかないのが隠密衆の身分だった。

 将軍の脇で、形こそ控えめに座っているものの尊大な気迫が漂う勝呂は、口元だけで笑う。

「死者数を減らしたいから隊士を養成する場を作れ、と、葛西殿は申されるわけですな」
「……無礼を承知で申し上げれば、そういう含みでございますが」

 氷鷺隊隊長の隆と同じく、勝呂も齢三十。だが将軍の前であってもその尊大な態度と物言いには、同年齢とは思えない部分があった。

「ほほう。しかし私にはどうも解せませんな。殉職してこそ幕府を支えたという証になるものを、隠密衆が死ぬ事に頓着するなら看板を下ろされた方がよろしいのではないか。葛西殿」
「死す事にこだわっている故ではありません。戦線が脆弱では幕府をお守りする事が不完全だと申し上げているつもりです。我々隠密衆の為ではなく、幕府の治安維持に必要不可欠な戦力が養えないという現状をお察し頂きたいと」
「その程度の輩が集った分際で今更強化しようなどとは、いささかおこがましく聞こえますな」

 毒舌そのものには、斗上皓司や自分の部下である麻績柴甲斐などで免疫がついている。浄次に言わせれば有り難くもない免疫だが、しかし彼らは隠密衆なのだ。自分達が所属している組織を頭から否定し、愚劣に貶めるような事は言わない。
 浄次が許し難いのは、隠密衆を抱えている徳川の人間が組織を批判する事についてだった。
 幕府に感謝して欲しいわけではない。
 同じものを守っている人間から批判される謂れはないと、それだけが憤懣の理由なのだ。



 勝呂の言葉を頭から追い出し、正装を普段着に替える為に箪笥を開けた。
 同時に、背後で何かが動く気配がする。隙の多すぎるそれは、明らかに隊士ではない。
 袴に帯刀している伊舎那天の柄に手を掛け、振り向きざまに抜き放って気配の方へ向けた。

「何者だ!」

 そう言った途端、ガチャン、と物の割れる音が響く。
 浄次がこの世でもっとも聞きたくない、嫌な音だった。

「ご、ごめんなさい……。ぼくわざとおとしたんじゃないよ……」

 あんぐりと口を開く浄次の目の前に現れたのは、今の今まで壷を手にしていたらしい子供だった。焼き物を飾ってある棚の裏から出ようとした格好のまま、浄次の声に驚いて壷を落としたのである。ただ落としただけなら、子供の身長が幸いして無残には割れなかったかもしれない。
 しかし、それは運悪くも棚の角に当たって落ちたのだった。
 粉々になった壷は浄次の理性に等しい。
 石化したのも束の間、浄次の理性は一瞬でガラガラと崩れ落ちていった。

「おじさんが入ってきたから、見つかったらおこられるとおもってかくれてたの……」
「…………」
「でもね、こそこそするのはいけないことだから、出ようとおもって……」
「…………」

 もはや何も聞こえていない浄次の前で、子供は次第にぐずぐずと泣き始める。浄次が一言「いいんだ」と言ってやれば済むのだが、割られた壷は珍しい形で二つとなく、集めた焼き物の中では値段の桁がはるかに違う一品だったのだ。子供を許す許さないという前に、割れてしまった壷への喪失感が今の浄次を埋め尽くしていた。

「ごめんなさい、おじさん」
「……おじさんじゃない」
「えと、じゃあ……おじ様、ほんとうにごめんなさい」
「…………」

 腕ごとだらりと垂れ下がった刀を鞘に収め、浄次は苦労して理性を取り戻す。子供の足元で粉砕した壷の破片を拾い始めると、子供も一緒になって破片を拾おうとした。

「触るな」

 小さな肩がびくっと跳ねて、おそるおそる浄次の顔を見上げる。浄次はそこで自分の言葉が誤解されたらしいと気付き、手を止めて子供を見返した。中身はともかくとして、浄次の眼光はかつて世間に獣のようだと言わしめた父親の眼に似ている。にこりと笑いもしない顔で正面から見られれば、子供が恐がるのは当然だった。

「怒ってないぞ。俺は怒ってなんぞいない。手を切ると危ないから触るなと言ったんだ」

 前半はむしろ自分に言い聞かせるように言い、誤解は後半で解いた。
 子供は目をぱちぱちと瞬かせて、こくっと頷く。
 割れた時に足を怪我していないか確かめてから、浄次は子供の脇に手を差し入れて持ち上げ、そのまま部屋から出て廊下に下ろした。

「動き回るのは構わんが、物を壊すんじゃないぞ。分かったな」
「うん、わかった」

 子供が去ってから部屋の隅で割れた壷を拾い、恨めしそうに手の中の破片を眺める。
 三年前に京都の清水で買った壷だった。
 同じものは二つ作らないと熱く語っていた頑固そうな店主の顔を思い出す。

(これも運命というものか……)

 拳を握って畳に手をつき、食い込む破片の痛さに手を振って離した。拾った破片がまた散らばるが、自分の間抜けさにはまったく気付いていない。さらに抜けている証拠として、今頃気付いた疑問を口に出して愕然とする。

「何故ここに子供がいるんだ……?」



 浄次が疑問詞を浮かべた時、襖をぼすぼすと叩く音がした。

「御頭、いらっしゃいますか?」

 虚ろに返事をすると、隆が陽だまりのような顔を覗かせて入ってくる。

「和菓子を買いに行ったら、陶芸職人が焼き物を売ってたんですよ。なんでも京都の清水から足を運んできたそうで」
「……清水の陶芸職人だと?」
「そうです。御頭が好きそうな壷があったので、一つ買ってきちゃいました」
bえ  隆は抱えていた風呂敷を丁寧に広げて、木箱の中から妙な形の壷を取り出した。
 それはまさに、清水の頑固親父が創作した焼き物の型だった。
 焼き物に関しては異常なまでに目を肥やしている浄次には分かる。つい今しがた割られた壷と形は違えど、これだけ風変わりな形は見間違えるはずもない。

「手を怪我してますよ、御頭」

 浄次の手のひらが血だらけになっているのを見て、隆は懐から絹地の手拭いを出した。実家が呉服屋なので、布の切れ端が余ると手拭い代わりに使うのだ。高価な物を好むわけではなく、手拭いを揃える手間が省けるので余り地を使っているだけだった。壷を見たい一心で生返事をする浄次の手に、隆が丁寧に布を巻きつけてくる。それからすぐに壷を取り、ぐるりと回しながら焼き目の色や艶具合まで入念に確かめた。

「あの頑固親父が作ったものだ……。二十五両は下らなかっただろう」
「さすがに目が肥えてますねえ。二十七両でした。でもどうして頑固な主人だと分かったんです?」
「今しがた、清水で買った壷を割られたばかりでな。店主を思い出していたからよく分かる」
「割られた?」
「得体の知れない子供がいて、俺が驚かせた拍子に割られたんだ。その時に手を切った」
「得体の知れない子供……?」
「廊下で擦れ違わなかったか?」
「いいえ、会いませんでしたよ。誰かが衛明館に子供を連れてきたのかなあ」

 所帯持ちで子供のいる隊士を思い浮かべる隆をよそに、浄次は先刻の悲劇を忘れて手の中の壷にほう、ほう、と感嘆しながら恍惚の眼差しを注いだ。

「二十七両と言ったな。払うからこれを俺に売ってくれ」

 新しい焼き物にすっかり目を奪われた浄次を見て、隆はぷっと吹き出して笑った。

「最初から御頭に差し上げてますよ。売るも何もありません。それに私が勝手に買ってきたものですから、お金は結構です」
「そういうわけにはいかん。寒河江に貸しが出来たようで後味も悪い」
「じゃあこうしましょう。いつか私に欲しいものができたら、それを代わりに買って下さい」
「何が何でも金を受け取るのが嫌なのか」
「お金のやりとりはどうも苦手でしてねえ。商売ならともかく」

 温厚な人柄にそぐわず、隆は一度言ったら融通の利かない性質なのだ。
 浄次は諦めて好意を受け取り、また壷に魅入って顔をとろけさせた。



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