四.


 部屋に篭城して三時間、甲斐はようやく窓の障子を開けて一息入れた。

「寒い?」

 褥に横たわる裸の女に尋ねると、さして期待もしていなかった通り返事はない。汗をかいたわけではないので、空気の入れ替えをする為だけに開けたのだ。失神したまま起きない侍女の、酸味を帯びた汗の匂いが充満している。
 新しい隊服を出して身に着け、乱れた髪を軽く直してから窓の障子を閉めた。

「今日はずいぶん冷えるネェ。って、言っても聞いてないか」

 掛け布団を侍女の首まで引っ張り上げてやり、用のなくなった自分の部屋を後にする。遠征の嵐で二週間も女を抱けなかった体が、やっと本調子に戻ったとばかりに清々した顔だった。


 宏幸と子分の数人がサボったおかげで、残りの隊士が適当に掃除した痕跡がそこかしこに残っている。汚れた雑巾で拭かれた元々汚い廊下は白く乾き、掃除をする前より無残だ。そのうち掃除好きの深慈郎が見兼ねて拭き直すだろうと分かっているので、甲斐は気にも留めずに階段へ向かった。

 ふと天井裏でかすかな物音がしたかと思うと、刀を抜く間もなく何かが目の前に落下してきた。反射的にそれを宙で掴み、野良猫かと思った落下物がそうではない事に気付く。手にぶら下げた物体を目の前に翳し、甲斐は言葉もなく呆然とそれを眺めた。落下物も甲斐の手にぶら下がったまま、しばらく放心してじっと見つめてくる。
 視線がぴたりと合った二人は、黙って互いの目を瞬かせた。

「……何コレ」

 長い沈黙のあとに、甲斐はまだ状況を把握できないといった顔で口を開く。次いで何か言おうとすると、落下物が好奇心に満ちた目をいっぱいに開いて甲斐の頬をちょん、と触った。

「うわあ、きれいなおかおーっ」
「は……?」

 落下物の声があまりにも単純、というより馴染みのない声域で、一瞬それが人語だと判らなかった。
 子供だったのである。
 小さな体格や性別の曖昧な顔立ちからすると、四歳くらいだろうか。仕立てのいい着物を身につけ、伸ばしかけの柔らかそうな髪を後頭部でひとつに結っている。身分の高そうな武家の嫡出子らしき風貌の男児を、甲斐はその後ろ襟を掴んでぶら下げていた。

「えっとね、ぼくうえ歩いてきたの」

 甲斐が不思議そうな顔をし続けているのを見てか、子供は天井を指差して言う。そんな事は分かっていたが、純粋な年頃の子供に突っ込むのは酷というものだ。「ふうん」とだけ返事をして、ひとまず子供を腕に抱えた。

「この道、どうやって見つけたのカナ」

 帯からはみ出た着物を片手で整えてやりながら尋ねると、首に腕を回してきた子供は物珍しそうに衛明館を見渡しながら、甲斐の鉢巻を引っ張ったりして遊び出す。

「おこめ屋さんのうらで遊んでたら、なんどの横にちっちゃいとびらがあったんだよ。それでね、はしごがあってね、おりていったらくらーい道があったの」

 天井の抜け道は、一軒の米屋の裏にある使われていない納戸の横に続いていたのだ。扉といってもそれは納戸の壁に見せかけてあり、見ただけで気付くはずもないのだが。さては宏幸がきちんと嵌めておかなかったのだろうと、甲斐は内心で呆れ返る。子供が入ってきたのなら、その扉は今頃開けっ放しのはずだ。宏幸達が律儀に再びそこから帰ってくるとは思えず、誰かがまた侵入してくるとも限らない。

 甲斐の思考をよそに、子供は赤い鉢巻をするりと抜き取って自分の額にちゃっかり巻きつけ、それから秘密を打ち明けるようにそっと耳元へ口を近づけてきた。

「ぼくね、ちゃんととびら閉めてきたんだよ」

 考えている事が伝わるわけでもないのに、子供はそう言って甲斐の腕の中で笑った。

「どうしてきちんと閉めたの?」
「ヒミツのばしょは、みんなに教えたらヒミツじゃなくなっちゃうもん」
「なるほど。お利巧さんだネ」

 甲斐は腰から抜いた鞘で天井の板を器用にずらし、元通りに嵌め込んでから階段を下りた。

「ところで僕、ここが何処だか分かる?」
「わかんない」
「多分、君のお父さんが働いてる場所だヨ」

 子供の風貌に似ている部分があるので、甲斐には誰の子供か検討がついていた。抜け道を通ってここに来たのは偶然だが、城下町には“お父さん”の家が確かにある。

「ぼくのおとうさん、お城のなかだよ。あんみつしゅーなの」
「……おなか空いてるのカナ。あんみつじゃなくて、隠密」

 そんなやりとりをしているうちに、人っ子一人いない冷えた廊下を過ぎて広間についた。



 襖を開けると、昼食時間の過ぎた広間は見慣れたマグロの風景が果てしなく展開されている。堂々と春画を見ていた隊士が首を曲げて吃驚の二文字を顔に張り付かせ、ブッと茶を吹き出した。

「お……麻績柴さんがついに隠し子つれてきたぞーっ!」
「班長に隠し子!? てか隠せるほど女遊びの行儀がいい人じゃな……あぁ何でもないですが!」

 毎度の事ながら逐一騒々しいマグロ集団が俄かにざわめき立ち、互いの顔に茶や煎餅のなれ果てが飛び交う。その様子を、子供は珍しそうにぽかんと眺めていた。

「おれの隠し子だったら片手じゃ抱えきれない。重さじゃなくて数の話ネ」
「それじゃ誰の子供なんですか、班長!」
「少なくともお前の子じゃないヨ。女に行儀がよすぎてロクに種付けもさせてもらえない身じゃ、出来るものも出来るないしネェ」
「……すみません、さっきの言葉は謝らせて下さい」

 畳に額をつける自分の隊士を無視して広間を見渡してみたが、父親はいなかった。

「お父さん、いないネ」
「うん、いなーい」
「探してくるから、このお馬さん達と遊んでてくれるカナ」

 隊士を馬呼ばわりして子供を下ろすと、へらっと笑った男達にくるりと背を向けて、子供は廊下へ飛び出していってしまった。子供の歓声が聞こえたので逃げたわけではないらしい。抜け道を見つけてここまで来たように、好奇心旺盛なだけだろうと甲斐は軽く溜息をついた。


「それで、誰の子供なんだ?」

 マグロに混ざっていた保智が甲斐の横に来て、廊下をおそるおそる覗き見る。

「あの顔見れば誰の子供か分かるデショ」
「分からないから聞いてるんだろっ」

 聞かなければよかったと思いながらも、保智は子供の顔を隊士に当て嵌めて思い出そうとした。栗色の髪の大きな目をした柔和な顔つき、とまで思い浮かべた時、甲斐の声が割り込む。

「それよりケースケは?」
「圭祐なら御頭と上さ……ま、ま、まさか圭祐の子供なのかっ!?」
「なにーっ!? お圭ちゃんの子供!?」
「お圭さんが産んだのか!? 麻績柴さん、そこんとこ詳しく教えて下さいっ!」

 誰の子だ、誰の子だと言い合っていたマグロ集団が、保智の一言で今日何度目かの奇声を上げた。勘違いも甚だしいが、圭祐が男だと誰よりも知っているのはこのマグロ達である。認めたくないが故の強烈な意識が、有り得るはずのない突飛な思考を呼び起こしていた。

「圭祐が子供なんか産めるわけないだろっ! 何言ってるんだお前ら!」
「能醍さん、あんた本当はお圭さんが女だって知ってるんじゃないんですか!?」
「だから圭祐は女じゃないっ!」
「僕が女だったら保くんと一緒の部屋になれないしね」
「当たり前だ! ……って、圭祐!? いつの間に……」

 出入り口で叫んでいた保智と甲斐の間に、年末報告の帳簿を抱えた圭祐が立っていた。長身の男に挟まれているせいで、肩までしか届かない圭祐の姿が一層か弱く可憐に見える。───少なくとも、今ここにいる隊士達の目にはそう見えて仕方がなかった。
 隊士達の血走った眼差しを知ってか知らずか、圭祐はけろっとした顔で保智と甲斐を見上げた。

「今戻ったばかりだよ。子供がどうかしたの?」
「ケースケが子供を産めるんだったら、おれとの子供も産んでたはずだよネって話」
「甲斐、お前な……!」
「産んでたっていうか、男なんだからどのみち産めるわけないよ」

 保智が怒り心頭に達する傍ら、圭祐は笑ってさらりと受け流す。甲斐の勝ち誇ったような顔と目が合い、保智は拳を握って震わせた。

「お圭ちゃん、正直に教えてくれ! 三歳か四歳くらいの子供いるのか!?」

 隊士の一人が堪り兼ねて切り出すと、全員がごくりと生唾を飲み込んで注視する。この場合、圭祐が「いる」と言えばそれは圭祐が産んだ子供として勘違いされ、「いない」と言えばやはり産めないのかと落胆されるかのどちらかしかない。どこまでも認めたくない隊士達は、圭祐に「いる」と答えて欲しい一心だった。

「いないよ。白状するのもあれだけど、可能性もないしね」

 どっと隊士達が畳に崩れ、干上がったマグロのような光景が一瞬で完成する。しかし、中には圭祐が女と寝ていないと知ってほくそ笑む者も数人いたのは事実だった。圭祐の前にあっては、女も男も穢す者としてしか認知されないという歪んだほくそ笑みである。



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