三.


 宏幸が町をふらついている頃、衛明館の広間では掃除を終えた者が次々と集まっていた。

「とてつもなく寒い今日に限って掃除だなんて、御頭も鬼だよなぁ」

 今年は外掃除の担当だった氷鷺隊の隊士が、ずずっと鼻を啜りながら腰を下ろす。

「遠征が詰まってるから仕方ない。明後日、龍華隊が能登に遠征だろ」
「能登だったのか。考えただけで寒い」

 侍女がお茶を運んでくると、隊士達はぱっと湯飲みを掴んで両手を温めた。年に一度の大掃除は隠密衆の者でやるしきたりなので、侍女達は休暇を与えられている。侍女と入れ替わりに、手を洗ってきた隆が広間にやってきた。

「いやー参った。井戸の水が凍っちゃってて、汲み上げるのに一苦労だったよ」
「寒いからそれ以上言わないで下さい、隊長……。そうだ、隊長のご実家で仕立ててもらった半纏を着てこよう」
「あ、オレも」
「ついでに俺のも取ってきてくれ」
「了解。押し入れだよな」

 どこかの班と違って、隊士同士が平和に仲のいいのが氷鷺隊だった。隆の温厚な人柄が隊士にまで伝染しているかのごとく、皆のんびりとしている。何人かが熱い茶を胃に流し込んでから立ち上がり、自室へ半纏を取りに行った。広間にいる者は、昼飯までここで寝転がって丸まっているつもりらしい。衛明館の中でもっとも人の出入りが多い場所だから温暖が取れるのだ。
 半刻ほど隊士が出たり入ったりするうちに、広間はマグロの寿司詰め状態になっていた。夏場は夏場で、弛緩した体を横たえるマグロ達である。


「なあ祇城ちゃん、西廊下の物置に幽霊が出よったってほんま?」

 半纏や厚手の羽織に包まったマグロを掻い潜り、冴希と深慈郎、祇城の三人は広間へ入る。冴希は一人の隊士を足で退けて座る場所を確保した。茶請けに出された海苔煎餅を手に取り、祇城は首をかしげる。

「幽霊ではなくて、巨大化した鼠みたいなものだと思います」
「なんや、見てないんか」
「壁の中にいたので見えません。そういう能力は持ってないので」
「アホ、壁叩き壊せばよかったんや。もしかしたら死体が腐って落ちる音だったかも知れへんで」
「むむむ椋鳥さん、衛明館の壁の中に死体なんかあるわけないじゃないですか!」

 冴希の隣で聞いていた深慈郎が、物置騒動を思い出して鳥肌を立てた。冴希は深慈郎の怯えた様相を見てははーん、と言い、八重歯を見せて企み顔を作る。

「タヌキは幽霊が怖いんやろ。ほな、今から西廊下の物置に行こうやないの」
「いやですよっ。あ、そ、そういえば沙霧様はどこ行ったのかな」

 話題を逸らす為に思いついた事を口にして、隊長の沙霧の姿がないのに気付いた。
 自分達のすぐあとに入ってきていたはずだったが、広間を見渡しても銀髪がない。

「……沙霧姉、うちらの後ろについて入ったと思うてたんやけど」
「入りましたよ……ね? だって、襖開ける時に僕が『雪が降るかもしれないですね』って言ったら、『かもな』って返事がありましたよ」

 広間に入ったのに広間に姿がない。
 これはどうしたことかと、三人は顔を見合わせて黙り込んだ。そこらで横断しているマグロ達は気付いていないらしく、ひたすら惰眠を貪っている。だが沙霧が入ってきた時は皆、たしかに顔を上げて沙霧を見たのだ。祇城は茶を啜ってから、眠そうな目を二度ばかり瞬いてぽつりと言った。

「広間の怪……」
「わーわーわーっ!」

 深慈郎が慌てて祇城の口を塞ぎ、周囲に目を走らせる。

 しかし、遅かった。
 そばにいた虎卍隊のマグロが目を輝かせて体を起こし、座敷童子のような格好でニタリと笑う。

「久遠、今面白いこと言ったな。西廊下に続いてここにも噂があるのか? 聞かせてくれよ」

 隊士達は揃いも揃って衛明館にまつわる怪談が好きなのだ。新しい噂を仕入れようと、隊士が半纏を頭から被ったままずいっと膝でにじり寄ってくる。

「何が出るんだ? この広間でうちの班長に斬られた隊士の怨霊とか?」
「ええっ!? うちの班長って……麻績柴さんが隊士を斬ったんですか!?」
「それも一人二人じゃぁないんだぜ。あの人の逆鱗に触れると弁解も言えずに……バサァッ!」
「わぁあっ!!」
「外山ってほんと阿呆だよな。で、広間の怪ってのは何だよ、久遠」
「今さっき一緒に広間に入ったはずの貴嶺隊長が消えたんです」
「なんだ、神隠しか。面白くねぇな」

 隊士は心底つまらなさそうに言ってごろりと横になった。
 二秒ほどの間をおいてから、再びガバッと飛び起きて血走った目を三人に向ける。

「……姐御が消えたーっ!?」
「神隠しというのは面白くないものなんですか」

 意味のわかっていない祇城が尋ねるが、隊士は無視して冴希の頬をつねった。

「入ってくるとこを見たオレは夢見てたのか!? おい冴希、ほっぺた痛いか!?」
「痛いわドアホ! 沙霧姉がいたのはほんまやっちゅうねん!」

 寝ていたマグロ達が騒ぎに気付いて起き出す。沙霧が消えたと伝えると、ものすごい動揺が起こった。入るところを寝ぼけながらもしっかり見たという者、声を聞いたという者。
 しかし、広間を見渡しても沙霧の姿はどこにもない。

 その時、襖が開いて龍華隊の隊士が一人入ってきた。
 広間にいた同隊の隊士が、素早く足元にすがりつく。

「青山さん、うちの隊長知りませんか!?」
「猫探しみたいだな……。広間にいないのか?」
「いたのに消えてしまったんですよ! 俺達がちょっと寝ていた隙に!」
「いたのに消えた? ああ、殿下がいらっしゃるならあそこだ」
「寒河江様じゃなくてうちの隊長の事です!」
「だから、うちの隊長は殿下の中にいるんだよ」
「……なか!?」
「なか。見てみれば分かる」

 何がなんだかさっぱり分からないという顔で、隊士達が一斉に隆に注目した。よく見れば、隆の腹のあたりが少し膨らんでいる。厚手の羽織を自分の腹に掛けているような、奇妙な姿だった。

「寒河江様……その腹は一体……」
「貴嶺さんが入ってるんだよ」
「……入ってる!?」

 驚愕の声が方々から沸き起こり、隆がそっと羽織をめくったその下を見て、瞬時に静まり返る。

 隆の胸に寄りかかるように、沙霧が身体を丸めて眠っていた。切れ長の目は完全に伏せられ、全身から漂う高潔さはどこかに吹き飛び、ただ無防備に身を預けている。あまりにも衝撃的な場面に、隊士達は覗き込んだ姿勢のまま凍りついた。

「俺の体温が高いから、冬になるとこうしてよく温めてあげるんだよ。貴嶺さん寒がりだから」
「……はあ。で、あの……どうして隊長は寝てるんでしょうか」
「あったかくなると眠っちゃうらしい。俺に妹がいたらこんな感じだろうなあ」

 隆は仏のような慈愛に満ちた顔で微笑み、自分の羽織をまた沙霧の上に被せてやった。その上からさりげなく両腕を回して抱きしめる。男女がいちゃつこうものなら途端に野次を飛ばす隊士達も、茫然とそれを眺めていた。

「……か、可愛い……。うちの隊長って、こんなに可愛い女性だったのか……」
「温めるという名目上で抱きしめられる寒河江さんが羨ましい……」
「馬鹿、あれは本当に温めてるんだよ。兄と妹っていうより、親鳥と雛みたいな光景だな」
「むしろ姐御が寄りかかってるのが殿下でよかったぜ……卑猥に見えねぇし」
「他の野郎だったら袋叩きにするところだよな……。それにしても本当に可愛い……」

 殺気ではない殺気のような、微妙な空気が広間に充満する。
 隆はにこにこと人のよさそうな顔で、懐の沙霧を見つめた。

「頼ってもらえると嬉しいねえ。こんなことでしか俺は頼りにならないけど」
「……こんなことができるなら他の何を捨てたっていいです、オレ……」

 放心したままの隊士が、今にも鼻血を吹きそうな表情で呟く。



 冴希は呆気に取られて隆の腹に埋もれる沙霧を眺め、隆の平和そうな顔を見た。

「殿下て、ほんま信頼されとるんやなぁ。こいつらなんかに湯たんぽ頼みよったら、今頃けったいなことになっとるで」

 鼻の下を伸ばしている野次を親指で示すと、何人かが冴希の頭をぱしっと叩いて抗議する。つい先刻も頬をつねった虎卍隊の隊士が、冴希の脇腹に手を伸ばして触った。

「気品も色気もない冴希には縁のない光景だよな。この厚いお肉のおかげで寒くねぇだろ」
「なんやてー!? どのツラ下げて言いよるんや! てゆうか触るなアホ!」
「もったいぶるような体型かお前。せめて肌の手入れくらい続けられたら褒めてやるよ」

 二人が兄妹のように小突き合って喧嘩を始めると、野次達が一斉に鬼気迫った目で睨みつけた。

「おい静かにしろよ。姐御が起きたらお前ら袋叩きにするぞ」

 くだらない事に必死な彼らは二人を廊下に閉め出し、隆を取り囲んでまた鼻の下を伸ばす。
 昼飯前になって沙霧が起きると、観察会は一瞬でお開きになったのは言うまでもない。



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