青天白日


四、

 翌年、春。

 集中的に大掛かりな討伐をいくつも抱え、隊士の名簿は次々と朱墨で横線が引かれていった。
 伊勢に出向いていた氷鷺隊が戻ってくると、ようやく一月ぶりに本陣は全隊が揃う。

「ご苦労。片付いたか」

 浄正は広間の上座に座って盃を空けながら、戻ってきた隆に声をかけた。
 その脇で白湯を飲んでいる浄次は、顔をしかめて押し黙っている。
 二人とも全身を黒衣に包み、腰に刀を佩いたまま険しい表情だった。

「やや苦戦しましたが、鎮圧は問題なく終わりました。隊士の死者は十三名、負傷者四十六名です」
「この一月で三十八名の損失が出た事になる」
「今年の春はどうしたものですかねえ。先月の赤穂討ち入りに影響を受けたんでしょうか」
「さてな。愚か者どもが考える事など俺には到底理解できん」

 隆は沙霧の隣に腰を下ろし、用意されていた酒を一口飲んだ。遠征のあとでも、まるで散歩から帰ってきたように穏やかな顔をしているのが寒河江という男だった。
 隆に続いて班長の保智と圭祐も腰を下ろす。圭祐は自分と相棒の盃に酒を注ぎ、軽く口をつけた以外は動かなかった。
 保智は全身から疲労を滲ませ、手の平で顔を拭っている。

 全国に渡って分散した敵が同日同時刻に謀反を起こすという大規模なものだった。
 計画段階で情報を集め、謀反を起こす前に制圧するのが隠密衆の仕事だったが、今回の敵はその一片すらも嗅ぎ取られることなく実行に移っている。これだけ大規模なものは三日やそこらでは計画を立てられるはずがない。敵が巧妙に立ち回った為に尻尾を掴めなかったのは、もはや隠密衆の失態を決定付けていた。

 広間に揃った隊士の顔を見渡し、浄正は自分に注目させる。

「揃ったな。新たに敵の一派が江戸に向かっているとの情報が入った。これが奴らの最終目的だ。我々を各地で叩き、粗方勢力を奪ったところで一気に攻め込むのが戦略らしい。一派の数はおよそ数百人。当然ながら雑魚の集まりではない」

 浄正の一語一語に、隊士は唾を飲み込んで顎から汗を滴らせた。

「今回に限り、首謀者を捕らえる必要はないとの御達しを幕府より賜った。奴らを一歩たりとも江戸に入れるな。一人残らず皆殺しにしろ」

 半日の休息も与えられず、隠密衆は再び立ち上がる。
 全隊が江戸城を中心に江戸の外れへと広がり、敵を迎え撃ちに動き出した。


 陽はすでに西へと傾き、茜色に染まった桜の枝が頭上で揺れている。
 浄正は城下町を抜けると、後ろから遅れてついてくる息子を振り返った。

「江戸城に残らなかったのは何故だ」

 浄次は衛明館を出る前から顔をしかめていたが、左手に鞘を握ったまま足を止める。

「父上が出陣なさるのなら、たとえ片足がなくても付いていきます」
「脇腹をやられた程度で顔をしかめている奴なぞ、野良犬にも劣る」
「俺はまだ戦えます! それを父上に認めて頂きたいだけです」
「俺が認めるというのはな、浄次。つまらぬ刀傷の一つも負わずに死ぬ者だ。そんな無様な姿を俺に晒しておきながらこの上を認めろとは何事だ」

 父親ではなく御頭としての浄正は、覇気に満ちた全身で浄次を真っ向から叩き潰した。
 朝方に敵から受けた脇腹の傷を抱え、それでも尚立ち上がった浄次を褒めるでもない。
 浄次は昨年の春にも、こうして同じように言葉で打ちのめされた事を思い出した。
 あの時は怪我をしなかったが、死に物狂いで敵にぶつかってもいなかったのだ。
 自分は逃げていたのだと思う。
 しかし一年の間に学んだ事は多く、あのような失言をせずに父親に認めてもらいたい一心で今の身があった。たとえ片手片足を失おうと、この手で刀を握れるうちはそれを見て欲しかった。
 だが、戦場の浄正はどこまでも冷徹で鬼神の如く、隊士の一人として甘い言葉はかけない。
 ひとたび刀を持つ者は、如何な理由があろうとも真っ当に死してこその仕事なのだ。
 浄正は、怪我を負って仲間に抱えられながら戻ってくる隊士には一言も声をかけなかった。

「そのはらわたを俺の前で曝け出す気があるか」
「……切腹しろとおっしゃるのですか!?」
「それ以外の何と聞こえる。お前の耳は飾り物か?」
「…………」

 肌寒い風が吹いていたが、浄次の額は汗を浮かべていた。

「隠密衆の名を無様な風体で汚すな。腹を斬れ、浄次」

 白刃のように眼を光らせながら、浄正は地に膝をついた浄次を見下ろす。
 浄次は唇を噛み、伊舎那天を置いて小刻みに震える手をのろのろと腰へやった。
 脇差から刀を抜く。

「御頭」

 浄次の背後から男が現れた。
 振り返ると、紅蓮に染め上げた小さな葵の紋章が襟に見える。

「持ち場はどうした、斗上」
「道を迂回しております。我々の道は崖崩れが起こっていて塞がっているので、半数をそこに潜ませてあります」
「成る程。武蔵野の辺りも先日の雨で道がぬかるんでいるだろうな」
「その地利はお任せを」

 皓司はそう言ってから手前に膝をついている浄次に目を向けた。

「切腹ですか」
「そうだ」

 答えたのは浄正だった。浄次は鞘から抜き放った脇差を震わせて黙っている。
 皓司はゆっくりと浄次に近づき、自分の脇差を抜いて差し出した。

「刃が曇っていますよ。私のは昨夜砥いだばかりですので、どうぞ」

 浄次は絶句して皓司を見上げる。
 笑みもしなければ眉根も寄せず、無機質な皓司の顔がそこにあった。

「砥がれていない刃で切腹すると皮膚との摩擦が悪くてすぐには入りませんよ」

 皓司が言うと、浄正はそこで浄次に向かってにやりと笑う。

「切腹の刀さえ満足に用意できん馬鹿者に時間を割くのも無駄だったな」

 浄正は皓司と目配せをしてから、浄次の後ろ襟を掴んで立たせた。
 浄次の手から脇差がカランと落ちる。

「脇差はきちんと砥いでおけ。太刀だけに頼りきっていると足元を掬われるぞ」
「御子息は脇差を何に使う為に差しているのでしょうね」
「飾りだ。見栄っ張りは使えんものでも持ち歩いていればそれで満足するからな」

 紅蓮隊が先を追い越して左へ消えると、浄正は右へ曲がった。

「浄次、俺の背を見るな。人真似ではいつまで経っても俺を越せんぞ」
「分かっています」
「ならば俺の前に出ろ。敵はすぐそこだ」

 行く手に、どこから現れたのか敵が六人ほど立ちはだかっていた。
 その後ろには、風車を持った子供が血を流して倒れている。
 父親らしき男が上に覆いかぶさって絶叫をあげた。

 浄次は伊舎那天を抜き、浄正の前に出る。
 黒半透明の刃身に施された龍の彫り物がうっすらと闇に浮かんだ。握る柄が次第に重くなっていく。刀から目に見えぬ陽炎がゆらりと立ち昇り、般若の様相をした影が浄次の手元に食らいついていた。
 伊舎那天は持ち主の精神を食い尽くす妖刀だ。その妖気に勝たなければ使いこなせない。

 黒い天狗羽織を着た敵が一斉に地を蹴った。
 浄正は刀を抜かず、浄次の後ろで腕を組んだまま始終を見ていた。
 六人の敵は一人すらも浄正を襲ってこない。
 襲えるはずがなかった。
 生首のひとつが血の糸を引いて浄正の足元に飛んでくる。
 またひとつ、もうひとつと、それは身体を持たずに転がってきた。
 最後の一人が刀を落として追い詰められ、顔の前に手を合わせて命乞いをし始めた。浄次はその手首ごと首を刎ね、前に倒れていく胴体を見つめながら、激しく肩を上下させていた。
 浄正は足元の生首を浄次の方へ蹴り飛ばし、茫然と立ち尽くす息子を我に返してやる。

「仲間の死体を見て命乞いをする者がどれほど卑しい姿か分かっただろう」
「…………」

 浄次はふらふらとおぼつかない足取りで振り返った。

「仲間が敵を殺しておきながら、ただ一人だけが敵を逃してやる事もまた卑しい行為だ」
「……そうですね」
「一年前のお前は目に余るほど卑しい愚か者だった。お前一人が殺生を好まないわけではない。では何ゆえに人を斬るのか? 守らねばならんものがあるからだ。隠密衆は国の安泰の為にある。そこをお前は履き違えていた。少しは理解したか」

 子供の体を抱えて叫ぶ男を顎で示し、浄正は歩き出す。
 浄次は子供の手から風車が落ちるのを見て、そっと目を伏せた。
 自分の父親はこういう光景を数え知れないほど見てきたのだろう。
 そうでなければ、軽々しく国の安泰などと言う男ではない。
 浄次は刀の血を払って鞘に収めると、道の両端に集まった民の間をゆっくりと通り過ぎた。



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