青天白日
五、
「俺、今月一杯で御頭やめっから」
浄正は麦飯をかき込みながらそう言った。
年に一度あるかないかの最大級の遠征から一週間。討伐はすぐに上から手当てが出るのでみな懐具合がよく、上機嫌で朝食を取っている時であった。
広間はぴたりと静止し、やがて一斉に味噌汁やら米粒が双方の間を行き交う。
ただ一人、浄正の横で黙々と口を動かしていた沙霧は、静かに箸を置いて御頭へ顔を向けた。
「今、何とおっしゃいました?」
「俺今月で御頭やめ……」
浄正が言い終わらぬうちに沙霧はその襟元を掴み、遠慮もなく捻りあげる。
「私が納得できるような理由をお聞きかせ下さい」
御頭の襟を掴んで捻りあげるなど、無礼千万もいいところだった。隊士達が顔に豆腐のカスや米粒を付けたままはらはらしている中、浄正はけろりと手を振る。
「もう飽きたんだよ。だってさー、俺十八ん時から御頭やってて、ちーっとも遊べなかったんだもん。そろそろ青春時代を取り返そうと思って」
「なら私も辞めます。御頭のいない隠密衆に用はないですから」
沙霧はぱっと手を離して膳を平らげ始めた。
「御頭はそこに座ってる洟ったれだ。名前だけでも隠密衆の御頭として引き継ぐぞ」
「葛西浄正という男が御頭でなければ用はない、という意味です」
浄次は突然自分が御頭を継ぐという話にも驚いたが、沙霧の一言に爪先まで石化する。
当の浄正は子供のような笑顔で沙霧の顔を覗き込んだ。
「何だ何だ、やっぱ沙霧は俺がいないと寂しいのかー?」
「上司としては御頭の代わりを勤められる者など永劫存在しないと思うからです。勘違いしないで下さい」
「だよなー、やっぱ俺あっての隠密衆だもんなー。そーだよなー。でも辞めるったら辞める」
「ちょ、ちょっと待って下さい御頭っ! 今月一杯って明日までじゃないですか!」
「御頭、断固反対です!!」
隊士達が口々に言い出し、ばたばたと箸や湯呑みを置いて畳に両手を付いた。
場内一致団結で拝み倒しの体勢にかかっている。
「御頭がいなくなったら、オレ切腹して首だけで故郷に帰ります!」
「俺もです! 皆、刀を抜け!」
一人の合図に、隊士達はさっと正座に直って脇差や長刀を構えた。
浄正は小鉢を突付きながら「今日の佃煮うまいな」などと独り言を言っている。
「何聞いてんだお前ら。だから御頭ならそこのヒヨッコが俺の代わりに勤めるってば」
「御頭が御頭でなければ御頭なんていりませんっ!」
「おかしらおかしらって、よく舌噛まないな」
「ふざけないで下さい! 俺達の御頭は浄正様ただ一人です!」
浄正は銚子を持って立ち上がり、浄次の後ろへ回った。
「お前が御頭だと不満すぎてみんな切腹しちゃうってさ」
「と……当然でしょう。俺にはまだ早すぎます」
「あと何年後なら適任だ?」
「五年……くらいではないかと」
浄正は銚子の底で息子の頭を叩いて横にしゃがむ。
「五年で洟ったれが治るのかー? 五百年の勘違いじゃねーの?」
「そう思うならご自分で続けたらいいでしょう!」
頭を擦りながら、浄次は嫌味ったらしい笑みを浮かべている父親を睨みつけた。
浄正は素知らぬ顔で片手を上げて注目を集める。
「おいお前ら。浄次が御頭になってもいいぞーっていう奴、手あげてみ」
誰も手を上げなかった。
浄次は二本目の箸を落として化石になっている。
「俺の残した功績が大きすぎて参っちゃうなー。ま、こんな阿呆でもモノは使い様だ。うまく使えばラクできるかもしれないぞ。どーだ」
モノは使い様、という言葉で隊士達は途端にひそひそと耳打ちを交し合う。
「たしかに御頭より頭が悪そうな分だけ使えるかもしれない……」
「名目上の御頭ってことになれば、俺達だけで好き勝手にやれるわけだよな」
当人に隠そうともせず、あちこちから同じような言葉が聞こえた。
「話ついたか。よーし、じゃもっかい集計。浄次が御頭で賛成な奴は手あげー」
今度は半数以上が手を上げる。明らかに私欲を優先した理由上の挙手だった。
「はい決定。そんじゃ来月から気持ち切り替えて頑張れよ。コツは使い方だぞ」
隊士達に向かってそう言うと、浄正は空のお椀を浄次の手に持たせて銚子を傾ける。膝にこぼれようとお構いなしに注ぎ、隊士を囃し立ててイッキコールを巻き起こした。
先刻まで猛反対していた隊士達も別の理由で浄次を御頭と認め、手を叩いて騒ぎ出す。
浄次は自棄になって、お椀になみなみと注がれた酒を一息に呷った。
目が据わっていたが、腹も据えたらしい。
浄正は銚子の蓋を開け、今度はそのまま浄次の口に流し込んで息子の御頭着任を祝った。
元禄十五年の事である。
「で、御頭はどうでもいいですが三人衆の穴はどうするんですかい?」
唐突に言い出したのは紅蓮隊の班長、上杉だった。
「え!? 隊長達の誰かも辞めるんですか?」
「貴嶺隊長、まさか本気で辞める気だったんですかっ!?」
「辞める予定」
どんちゃん騒ぎが素早く動揺に変わり、隊士達は頼みの綱である隊長陣を見渡した。
浄正は侍女から味噌田楽を受け取ると、忘れてたとばかりにぽんっと手を打つ。
「そうだ、皓司も辞めるんだった」
「……あ、そうだったんですか。斗上隊長が……」
微妙なものを含んだ溜息がちらほらと聞こえた。
隊長としてでなくても、隊士達にとっては普段から近寄り難い男なのだ。その点は浄正の方がまだ親しみを持てる雰囲気だった。皓司を畏れないのは班長以上である。
「御頭が引退するまでの契約ですので」
皓司は何を今更、といった含みで茶を啜る。
隠密衆に契約なんかあったっけ、と隊士達は顔を見合わせた。
「こいつ俺の為に隠密衆に嫁いできたよーなもんだからな」
「娶って下さってありがとうございます」
「女房役はこれからもだろ」
「当然です」
浄正は笑って味噌田楽をほうばり、班長の六人をぐるりと見渡した。
「隊長が抜けても紅蓮隊の隊士はそのまんまだしな。甲斐、お前どうよ。俺と皓司がいなくなりゃ威張り放題やりたい放題だぞ」
「冗談。御頭があれじゃさすがにネェ。上杉もいなくなるし、俺も辞めようカナ」
保智は初めて知ったらしく、上杉の顔を見て呆然と聞いた。
「お前も辞めるのか」
「いや、オレは信濃の諜報に回るんで。シバさんと組んでたら自分が実戦に不向きなのがよく分かりましたぜ」
「人のせいにするんじゃないヨ」
「そんなこた言ってやしません。お世話になりっぱなしだった」
隊長が変われば何人かの班長も役職が変わる事が多い。
隠密衆の隊長が変わるのは、隊士達にとってひとつの区切りのようなものだった。
「まいっか。俺が決めることでもないしな。あとは浄次に任せた。うまーく上を固めないと崩れるぞ」
「……斗上が受け持っていた経理などは誰が引き継ぐんですか?」
浄次はようやく口を開いて盃を置いた。
「それもお前が決めんの。今まで何見てきたんだ洟ったれ」
「お、俺は父上を越す事しか念頭にありませんでしたから」
「バーカ。全体を把握しないで俺が越せるか。まったくどーしよーもないヒヨッコだな。雑務仕事からやった方がいいんじゃねーの?」
「ぐ……」
言い返せない浄次に、名乗り出たのは圭祐だった。
「あの、御頭さえよければ僕がやります」
浄次がぱっと顔を上げると、圭祐は清楚な少女を思わせる顔でにっこりと笑う。
「わりと得意だと思いますし、他に持ち場がないから手は空いてます」
「そうだねえ。圭祐は頭がいい子だから、大丈夫ですよ。御頭」
隆が後押しして言った。
だが浄次は経理が決まったことよりも、さっそく御頭と呼んでくれる二人に感動して言葉に詰まっていた。
「おいおい、まだ俺が現役よ? 明日の夜までは俺が御頭。こいつはヒヨッコ」
「あれ、“先代”はもうやる気なくしたんじゃありませんでしたっけ」
「明日の夜にやる気をなくすんだもん。隆、お前も長いんだし潮時だよな」
「そうなんですよねえ。俺も辞めちゃおうかな」
「うわっ! 寒河江様、やめちゃおうかなって軽々しく言わないで下さいよ! 俺達まで路頭に迷わせるつもりですか!」
「保智が後任なんてどうだい?」
「能醍さんは頼りになりません! それならまだお圭さんの方が!」
「悪かったな、俺は頼りにならなくて!」
「本当のことでしょうが!」
隠密衆では最長記録を保っている氷鷺隊までもが揉め始め、再び広間が騒がしくなる。
浄正は自ら厨房へ行き、酒樽を抱えてきて盛大に振舞った。
「十年後にまた現役復活するからな。このメンツが一人も残ってなかったら全員減給ーっ」
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