青天白日
ニ、
日が落ちた頃、隠密衆の一行が町を歩いて江戸城に戻ってきた。
浄正も含めて皆腰に刀を差し、平隊士のほとんどが規定の隊服を着ているので、町では隠密衆が討ち入りを始めるのかと身を竦めていたものだった。
誰も残っていない衛明館に戻ると、奥で二つの人影が動く。
自分で磨いた床をぺたぺたと歩きながら、浄正は二つの影に近づいた。
「おう、お帰り」
「そちらこそお帰りなさいませ。胃袋は御満足そうですね」
「お前の刀も満足らしいな」
くぐもった呻きがして一つの影が動かなくなり、足元に崩れる。
浄正は柱の蝋燭に火をつけた。明かりが静かな廊下をぼうっと照らし出す。
ぞろぞろと衛明館に入ってきた隊士の数人が、浄正の足元を指差してざわめいた。
「一人くらい残しておこうとは思わなかったのですか。空き巣に入られたのは二度目ですよ」
「そういや前回も始末してくれてたのは皓司だったな。特別手当てやろうか?」
「結構です。今度からは私がいる時か、さもなければ一人班長を残して出かけて下さい。行き先を書いた貼り紙など何の役にも立ちません」
懐紙で刀の血を拭い、皓司は白刃を閃かせてぱしんと鞘に収める。
床に倒れた盗賊は首を掻き切られて絶命していた。
「ところでお食事代はどこから出したのですか」
「なーに、経費は使ってないから安心しろ。太っ腹のおかげだ」
皓司は笑いもせずに横目で浄次の顔を伺う。心なしかげっそりしたような表情に見えた。
「将来、資金不足で隠密衆が潰れなければいいですね」
「だとさ。聞いたか浄次」
「……あと四、五年は俺が率いる事もないので大丈夫です」
「僭越ながら御頭はあと十年ほどは現役で通用しますよ。御子息」
「十年後ってーと、俺五十三か。楽勝だな」
「…………」
浄次が絶句している間に皓司の隊の二人が死体を片付け、隊士達はそれぞれ自室や広間に行った。中には浄次にお礼を言う者もいたが、半数以上は御頭である浄正に食事の礼を言っていく。
浄正は息子の背中を叩いて耳元に囁いた。
「蓄えがあるならあるって正直に言えよな。本気で刀売ろうと思ってたぞ」
浄次がぎょっとした顔で振り向くと、浄正は口笛を吹きながら廊下の血溜まりを跨いで行った。
昼から五時間近くも宴会騒ぎをやってたらふく食べてきた隠密衆は、それでも夕飯をぺろりと平らげた。仕事柄で体を鍛えているだけに胃袋の消化活動も半端ではない。
その後、広間では賭博や花札など各自好き勝手な光景がそこかしこで目に付く。
浄正は皓司と将棋を指しながら、横で放心したように茶を啜っている息子に声をかけた。
「ヒマそうだな、浄次」
先刻本気で刀を売られそうになった浄次は、それ以来自分の刀を絶えず身に着けている。肌身離さず厠にまで差していく始末だった。いつ何時こっそりと売られるかも知れたものではない。浄正ならやりかねないと信じているようだった。
「遠征がない時は皆暇でしょう。父上だって暇だから将棋をしてるのではないんですか」
「だあほ。将棋ってのはな、頭を使って戦略を立てる真剣勝負だ。見ろ、相手が一枚上手の戦略家だと命が危ういんだぞ。これが戦場だったら俺はいま瀕死の状態だ」
浄次が将棋盤を覗くと、たしかに皓司の方が断然有利な立場にあった。
断然どころか、これ以上どう動いても王手をかけられる八方塞がりな状態にある。
「完全に負け戦ですね。万が一勝ったら、父上を背負って腕立て伏せ一万回でもやりますよ」
「ほんとーだな? 男に二言はないぞ浄次。俺付き腕立て伏せ一万回」
「そんな状態で勝てたらですっ」
「よし見てろ。今まで誰も使ったことない奥義でひっくり返してやる」
皓司がうたた寝でもしない限りそれは無理だろうと、浄次は内心ほくそ笑んだ。
「御頭。私は御子息の腕立て伏せなどに興味はありませんので、手加減しませんよ」
案の定、皓司は正座したままぴしゃりと宣言する。齢二十四だが、その落ち着きぶりは老練さを放っていた。浄正は胡座をかいた姿勢で両手を揉みほぐし、余裕の体で言い返す。
「誰にもやったことない奥義で一発逆転するんだもーん」
皓司と浄次が揃って溜息をついた。その年齢に相応しくない物言いに対して。
ところが、浄正は知る人ぞ知る負け知らずな男である。
勝つと言ったからには例外なく負けたことがない。
八方塞がりだった将棋盤を一気に覆して、いとも簡単に皓司の王将を取ってしまった。
「そーら、俺を乗せて腕立て伏せ一万回! 今からやるぞ」
「……き、汚い手を使ったんじゃないですか!? 斗上、今のは父の姑息な……」
「なかなか見事な奥義でした。そういう手がありましたか」
「お前のことだからもう頭に入れて覚えただろ」
「活用させて頂きます」
「やっぱし見せなきゃよかった。ま、いーべ。そら浄次、うつ伏せになれ」
浄次は湯呑みを握った手をわなわなと震わせ、迂闊な言葉を心底後悔する。
浄正はにやにやと笑いながら湯呑みを取り上げ、足でその肩を押して畳に這いつくばらせた。広間にいた隊士達が一斉に顔を向けて注目する。
風呂から戻ってきた隆が、不気味な沈黙に包まれた広間を見渡して首をかしげた。
「静まり返っちゃって、どうしたんだい?」
戸口に寄りかかって冷酒を飲んでいた甲斐と同隊の相棒である上杉が、隆を見上げて笑う。
「御曹司が御頭を乗っけて腕立て伏せ百万回やるってところです」
「一千万回だヨ。どのみち一回もできずに潰れるのに1両賭け」
「それじゃ話にならないですぜ、シバさん。オレも一回目から潰れるのに賭ける」
「いくら?」
「三両」
「ならおれは五両賭けようカナ」
「あんたとは賭けになりませんや」
二人が口々に言い合う頭上で、隆は苦笑して広間の中を見た。
当然賭けをしているのは二人だけではない。沈黙はすぐに破られ、そこかしこで高額の賭けが飛び交い始めた。
「はい腕立ててー。あらよっと」
「ぐおあっ!!」
浄正が背に乗ると、無様にも浄次は畳に腹ばいになって潰れる。
途端に野次集団があーっという大歓声を上げた。
「二両戴きだ!」
「畜生……」
などという賭博場のような取引が素早く行われる。
「なっさけないなー、浄次。沙霧だって俺を乗せたまま腕立て伏せくらいできるぞ」
隠密衆きっての紅一点である沙霧を指差すと、浄次は潰れた蛙の体勢で沙霧を見た。見るからに痩身の沙霧は異国人との混血で背丈こそ高いが、二の腕の太さは浄次の半分もない。
「そんな事を言って俺を無様にしたいだけでしょう、父上は」
「沙霧ー、こっち来て見せてやれ」
「別に構いませんが、乗るだけにして下さい。いつもみたいに服をめくる気ならひっぱたきますよ」
「今回はしないしない。野郎どもに見せるのはもったいないじゃん」
何気ないやりとりに、隊士達は一瞬ぴたりと止まってから殺気立った。
(何がいつもみたいにだって……!?)
(今、とてつもなく凄まじい台詞を聞いたような気がするが……)
(……御頭はああ見えて、普段はかなり好色だって話だ)
ざわざわと囁き声が蔓延する中、沙霧は面倒くさそうに立ち上がって浄次の眼前に足を止めた。長い銀の髪を無造作に束ねてからうつ伏せになると、浄正が遠慮もなく背中に乗って胡座姿勢になる。女の細腰に、倍の体重の男がどかりと乗った状態だった。
浄次はそれだけで潰れたが、沙霧は顔を少し動かし、「いいですか」と平然とした声で訊いた。
「よーく見てろよ。洟っ垂れ小僧」
浄正は沙霧の上から、意地の悪い笑みで息子を見下ろす。
浄次は言葉もなく沙霧を見つめて絶句していた。
ものの数分で浄正のカウントは五十を超えた。
沙霧は汗ひとつかかずに、最初と変わらない動きで腕を屈伸させている。
「……九十八、九十九、ひゃーく。片手離してまた一から」
沙霧がすっと片手を背中に回す。
浄正を乗せたまま、今度は片手だけで腕立て伏せをやり始めた。
もはや誰も声を出す者はいなかった。
片手だけで男の体重を支え、屈伸を繰り返している女など有り得ない。
だが沙霧はそれすらも易々とこなし、五十を超えると三本指のみでやり出す。
「よしご苦労さん。どーだ洟っ垂れ、反論あるか? あるなら何時間でも聞いてやるぞ」
浄次は蒼白の顔で、何事もなかったかのように起き上がる沙霧の腕を見つめていた。
よくもあれだけの力があるものだ。
浄次は断じて非力ではなかったが、こうも見せ付けられてしまってはぐうの音も出てこない。
息子の葛藤が手に取るように分かる浄正は、してやったりと笑いながら冷酒を口に放り込み、それとなく沙霧の尻を触ってその手を叩かれた。
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