青天白日


一、

「父上! 敵の一部が降伏していますが、捕らえて江戸に」
「抹殺せよと言ったはずだ。始末しろ」
「し、しかし降伏しているんですよ……」
「お前は何を勘違いしている、浄次。捕らえるのは佐久間だけだと俺は言ったぞ」

 桜の葉が黒衣の肩に舞い降り、浄正の刀に滑り落ちた。脂をたっぷり吸った刀は、刃先から生新しい血を滴らせている。
 浄次の刀はまだそれほどに血を吸っていない。
 思わず自分の刀を背に隠して父親の横顔を見た。
 刃のように研ぎ澄まされた眼光がちらりと動き、その前を再び花びらが舞い散る。

「この期に及んで殺生が人道に悖るなどと腑抜けた事を抜かすのなら、お前の口を斬り裂いてやろう。その無駄口がなければ黙って任務をこなすしかなかろうよ」

 ひゅん、と刀が空を切る音がし、浄次は咄嗟に目を瞑った。
 顔に生温いものが飛んでくる。そっと目を開けると、瞼の上からぽたりと何かが落ちてきた。頬に当てた指先に生々しい血が付着する。

「ち、父上……」
「刀の血を払っただけで肝を縮ませる程度の男か。十八にもなって不甲斐ない」

 浄正は息子に向けて刀を一振りし、吸い上げた血を払い飛ばしただけだったのだ。
 だが浄次は本当に斬られたのかと思い、眉間の血を拭いながらも動揺を隠せなかった。

 浄正は音も立てずに砂利の上を歩いて離れていく。
 浄次は慌ててその背を追った。

「待ってください、父上。俺は人を斬れないわけではありません。しかし」
「いいか浄次。しかしだの何故だのという屁理屈はな、戦で最も必要ないものだ」

 浄正の行く手は屍に埋め尽くされていた。
 今も、先の小屋の前で隠密衆の者が若い女を斬ったところだった。首を刎ねるとすぐに別の場所へ消える。それを見届けてから浄正は足を止め、ゆっくりと振り返って獰猛な眼を向けてきた。

「死す事即ち無言だ。一人足りとも生かしておくな」




 隠密衆のねぐらである衛明館の庭は若葉に彩られ、朝露を光らせて廊下を照らしていた。
 侍女達は袖をまくって朝食の膳を下げたり掃除をしている。
 浄正はしばらく広間でくつろぎ、暇を持て余して館内をふらふらと歩き始めた。

「あっ、浄正様!」

 手前の侍女が浄正に気付くと、途端に雑巾や膳を持った女達が集まってわいわい騒ぎ出す。

「何してるんですか? すっごく暇そう」
「おー。すっごくヒマなんだよ」

 浄正は片手を懐に入れ、倦怠な仕草で首を擦った。まわりを取り囲む侍女を見渡し、一人の手から雑巾を取り上げると頭上でひらひらと振ってみせる。

「不定期恒例の雑巾がけ競争でもやるか?」
「やですよー。だって浄正様早いんだもの。手加減してくれたらやります」
「いつも手加減してるのに。よーし、今日の優勝者は俺と昼飯食いに行くってどうだ」
「ほんとに!? それ奢りですよね!」
「何でも奢ってやるぞー」
「じゃあ浄正様は審判になって下さいよ。私たちだけで競争」
「俺だけつまらないじゃん。混ぜろ混ぜろ。後ろから裾覗いたりしないから、な?」
「浄正様ってばすぐ下品なこと言うんだから!」

 侍女の一人が浄正の腕をばしっと叩いて笑った。まがりなりにも浄正は隠密衆の現御頭だ。
 しかし侍女達は戦場の浄正を知らない。
 仕事をしていない時の浄正がこの通りなので、誰も恐ろしいとは思えないのだ。
 唯一浄正を畏れているのは現場を見てきた隊士達だけである。

 我躯斬龍で鍛錬をしていた隊士達が帰ってくると、いきなり足元に浄正の頭が突進してきた。一人の脛に頭がぶつかり、前に倒れそうになるのを必死で踏ん張っている。浄正は顔を上げてニッと笑い、軽く片手をあげた。

「おう、悪い悪い。また俺がいちばーん」
「……はい!?」

 隊士達が声を揃えて聞き返すと、浄正は立ち上がって足で雑巾を取り、足の裏でも見るような格好で雑巾を手にした。

「浄正様! また本気で走ったでしょ!」
「千鶴子も足速いんだから追い越してみ」
「もう一回勝負して! 今度こそ抜かして顔面蹴っ飛ばすからねっ」
「そーだそーだ、そんくらいの勢いで勝負するのが楽しいんだ」

 侍女と浄正のやりとりを呆然と見ていた隊士達は、顎を外したまま衛明館の入り口で硬直していた。
 浄正は濡れた雑巾を手の上で弾ませながら振り返る。

「新入り、朝っぱらから稽古か」
「あ、は、はいっ。日々鍛錬をして……」
「よく朝飯戻さないな。俺だったらゲロっちゃって大変」

 隊士達は一昨日の入隊試験で合格したばかりだった。
 隠密衆の怠慢な日常など三日で知れるというものだが、昨日は新人だけ揃いも揃って前日の宴会で酒に潰された。つまり今日から本格的に隠密衆の生活実態を目にしていくのだ。
 その記念すべき初打撃は、御頭である浄正に食らった。
 隠密衆は全国諸藩に豺狼の群れと恐れられている。平民にとっては非道極まりなく映る行動の数々から、そう囁かれるようになった。隠密衆に入隊希望を申し出る者で、その噂を耳にしてこない者など一人もいない。実際に試験で目にした御頭の威厳に畏怖しながらも、その下で働ける事に誇りを抱いた者も多い。
 だが、平素までその威厳が保たれているわけではなかったのだ。

「朝から我躯斬龍を使うのは結構だが、鍛錬なら他にもやりようがある」
「そ、それはどんな……」
「今特訓中の廊下水拭き競争。またの名を雑巾がけ競争」

 四人の新人隊士は間近で御頭と話をしているせいか、世間の噂も吹き飛ばす言動が不可解なのか、みな顔の筋肉を強張らせて切迫した表情をしていた。
 浄正はまったく気にした素振りもなく、一人の肩を掴んでその手に雑巾を握らせる。

「お前、橋田だっけ? 試験の時の動きはなかなか見込みありそうだったからな。いっちょ雑巾がけで俺と勝負しよう」
「……ってあの、御頭っ! 御頭が雑巾がけをやるんですか!?」
「ヒマだから遊んでるんだよ。こいこい。スタートはあっち」

 戸惑う新人の肩に腕を回し、侍女の一人から雑巾を受け取った。
 スタート位置について四つん這いになると、廊下の先で固まっている三人へ呼びかける。

「誰でもいいから審判頼んだ。友達ヒイキしたら減給だからな」

 にやにやと笑う浄正を見て、一人が慌てて廊下の端に立った。

「橋田。俺に勝ったら昼飯奢ってやる」
「……昼飯ですか」
「おいおい、俺とメシ食うのが不満か? 女の子も一緒だぞ」

 指で後ろを示すと、雑巾を旗のように振っている侍女達が一斉に黄色い声を上げた。

「浄正様がんばって〜!」

 廊下の先に立った新人が片手を上げる。その手には青色の鉢巻が握られていた。
 合図と共に鉢巻が下ろされると、浄正と橋田は勢いよく後ろ足を蹴って走り出した。ダダッという双方の足音が廊下の板を軋ませている。半ばまで完全に互角だった。
 ゴールに近づくと浄正がずいっと前に出てラストスパートをかける。
 胴半分は追い越した。
 余裕の笑みを見せてゴールを突っ切ろうとした時、またしても正面から誰かが突っ込んできて浄正の頭と衝突する。

「ちち……おわっ!!」

 ぶつかった方は思い切り脚を取られ、つんのめって浄正の上に覆いかぶさった。

「いてっ!」

 浄正が雑巾を滑らせて前に倒れる。
 腕を伸ばしたが、先にゴールを切ったのは橋田だった。

「誰だ、俺の優勝記録を邪魔したのは!」

 勢いよく起き上がると、覆い被さっていた男が弾き飛ばされて縁側に落ちた。顔面から芝生に落ちた男はへたりと身体を横に折り曲げて身を起こす。

「……廊下を這って何をしてるんですか……父上」
「なんだ洟ったれ小僧。あとちょっとだったのに」

 縁側に落ちた息子の顔に汚れた雑巾を投げつけ、浄正はふんっと鼻息を荒げて腕を組んだ。その後ろで、御頭に勝ったら何を言われるかと萎縮している四人の顔がある。
 浄次は顔に飛んできた雑巾を剥がして立ち上がり、脛を擦りながら縁側に上がった。

「上様が水戸からお戻りになったので報告しにきたんです」
「とっくに知ってる。さっき向こうに見えたもん」
「見えたもん、じゃないでしょう! 行かなくていいんですか!」
「用ないし」

 浄次が肩を落とすと、浄正は何かを思いついたように顔を輝かせて侍女達を振り返った。

「昼飯は料亭だ料亭っ。浄次が奢ってくれるから隠密衆総出で行くぞ!」
「誰がいつ金を出すなんて言いましたか!」

 浄正はにやりと笑って悪戯っぽく歯を剥き出す。

「俺の頭にぶつかった時」
「言ってません!」
「俺の邪魔をしたんだからツケは払ってもらわなきゃ。まさか金がないなんて言わないよな? お前が小便垂らして鼻くそほじってた頃から小遣い与えてたんだし。優しい父がくれてやった金、残ってるよな」
「残って……るわけないじゃないですか! その金で刀を買えと言ったのは父上ですよ!」
「じゃ伊舎那天を売っ払っちゃおう。そうしよう。どーせお前には出来すぎた刀だし」
「父上ッ!!」



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