猛獣たちの夏
- Episode 2 -


三、


 意識が戻ったのは明け方、尿意に起こされた。厠まで歩いていけるのかと我が身を案じたが、思いのほか身体が軽い。頭痛も治まっていた。自然療法だか裏技だか知らないが、結局あれのおかげらしい。
 上体を起こすと寝間着は新しいものに取り替えられ、枕元には飲み水と桶と散薬の袋。
 新しい薬が置いてある。夜中に江戸へ帰ってまた来て置いていったんだろうか。
 と考えるまでもなく、エルは俺の隣で爆睡していた。
 畳の上で寝るという謙虚さはない。きっちり布団の半分を占領している。

(悪魔に取りに行かせたのかな)

 用を足したついでに来客用の枕を持ってきてエルの頭の下に入れてやった。
 口も態度も悪いが気配り上手でとことん世話焼き。医者はまさに天職だろう。

「エルー、裏技効いたみたいだよ」

 頬を突いてみたが反応なし───お疲れ様。




 再び目が覚めると寝間着はさらに新しくなっていた。
 隣を見ると来客用の枕もエルの姿もなく、外はいい天気で。異世界から戻ってきたようなふわふわした気分だ。

「おはようございます。具合はどうですの」

 起きる気配を察知したのか、玲が部屋に入ってきた。

「おはよ……寝間着、玲が替えてくれたの?」
「自業自得で風邪を引いたお馬鹿さんにわたくしがそこまで親切だと思って?」
「だよね。じゃあエルか。もう帰っちゃった?」

 とっくに、と頷いた玲が俺の額に手を当てる。玲の手は夏でも冷たい。

「太い座薬が効いたようですわね。でも夜にはまた発情しますから油断は禁物ですわ」

 部分的におかしいのはともかく風邪をひいたことがないのに妙に詳しいじゃないかと問うと、いつ兄貴が病気で帰ってきても看病できるように学んだのだという。なるほど納得。
 エルが作った梅粥を持ってきてもらい、一口食べてみた。
 途端に涙が出る。すこぶる美味しいだけに、茶碗一杯分に梅干し五個はくだらないこの酸っぱさが憎い。せめて玉子粥にして欲しかったが、両親が三日間不在の真夏に生卵を置いていくわけないかと台所事情を察した。
 空になった茶碗と引き換えに玲が薬を差し出してくる。

「……何、この『昼』って」

 薬包紙に大きな文字で『昼』と書いてあった。玲はそれだけじゃないと言って残りの薬を見せてくる。『朝』だの『夕』だの、それぞれに一文字ずつ書かれていた。

「学習能力のない貴方が一度に飲んでしまわないようにと、太い座薬の主が書いたんですって。気持ち悪いほど優しいお友達じゃございませんか」
「へえー。あいつ見かけによらずマメじゃん」
「気持ち悪いお友達に感謝なさいまし」
「玲、ニュアンスが変わってるよ」

 何をするでもなくただ寝ているだけというのは存外疲れる。
 洗濯をするといって玲が部屋を出た後、天井の梁から物の怪が姿を現した。ネズミとイタチを足して割ったような姿のそれに手招きすると、嬉しそうにひゅるひゅると降りてくる。

「つまんないね。なんか面白いことないかな」

 物の怪を突いて遊んでいた時、稽古場の庭の方から聞きなれない声がした。
 複数の足音と下卑た男の笑い声。男の門下生は何人かいるが、彼らではなさそうだ。品のない奇声とともに乱暴な物音が聞こえてくる。
 身体を起こすと咳が出た。
 ああついに咳が……『昼』の薬は即効性じゃないという事か。

 寒気はしないが一応羽織を着て廊下に出る。物の怪がぴょんと袖の中に潜った。
 稽古場に足を踏み入れて一番、目に飛び込んできたのは滅茶苦茶に荒らされた室内。庭に面した障子は破られ、床の間の花は引っくり返され、掛け軸や襖は真っ二つ。庭は廃墟に変わり果てていた。

「おや坊ちゃん、寝起きかい。しまりのねぇ顔して、これが跡継ぎたぁ笑わせるね」

 縁側に座っていた男が立ち上がる。それを合図のように数人の侍崩れが集ってきた。手には抜き身の刀、足は土足。今日が雨じゃなくて幸いだ。

「門下のご希望でしょうか」

 そらっとぼけた笑顔で尋ねると、侍崩れのまとめ役らしい縁側の男が破れた障子を踏みつけながら室内に入ってきた。

「そう見えるかい」
「そうは見えずとも花を学びたいとおっしゃられる御仁は間々おりますので」
「こりゃあ面白い坊ちゃんだ。どれ、ひとつ教えてもらおうじゃねえか」

 畳に落ちている紫蘭の花を拾い、男はそれを宙に放った。
 男の刀が十文字に翻る。
 廃れた景色に紫の花吹雪が舞った。

「こんな感じでどうだい」
「ほう、お上手ですね。紫蘭の紫をこういう形で引き立てるとは感服致しました」

 本当に感心したのだが、男は何が気に食わなかったのか不満顔。
 花の芸より刀の芸を褒めて欲しかったんだろうか。

「なるほど、こいつは確かに斗上の息子だな。しまりのねぇ顔だが肝は据わってる」

 しまりのない顔がすっかり俺の形容詞になってしまった。人当たりのいい笑顔が自慢だというのに、とことん分からない奴だ。

「ご足労頂いたところ誠に恐縮ですが、生憎当主は不在でございまして。私の一存では入門可否を決めかねますゆえ、日を改めてお越し下さい」

 頭を下げると男が舌打ちした。不在とは知らず残念の意味か、慇懃な態度が癇に障ったのか。どっちにせよ親父に用があったとしても同じ態度で出迎えられることに変わりはない。斗上の家だと知ってやってきたのだから、そのぐらいの予備知識は入れておくべきだ。
 男は周囲の侍崩れに顎をしゃくり、「遊んでやんな」と決め込んだ。

「用があるのは坊ちゃん、お前さんよ。大事な跡取りが殺されたとありゃご当主様もでかい顔はしてられんだろ。娘の方はたっぷり可愛がってからあの世へ送ってやる」

 そういえば玲のことを忘れていた。
 裏庭からは何の騒ぎも聞こえないところを見ると、まだ彼らに見つかってないのかもしれない。家の構造が複雑で客が迷子になっている可能性もあるが、それなら後で玄関まで送り届けてあげるとしよう。
 誰の陰謀かはさておき、目的は分かった。
 両親の不在を知ってて今日を選んだとなれば犯人は絞れるだろう。
 とりあえずこの無法者を追い出し、明日までに部屋や庭を修復しなければ。

「左様ですか。ではこちらも遠慮なくお相手させて頂きましょう」

 羽織を脱いで右手を軽く振る。
 袖に入っていた物の怪が腕に絡みつき、手に触れた瞬間一振りの刀に姿を変えた。

「……おいおい坊ちゃん、何の奇術だい。どっから刀が」

 ニヤついていた男達が急に気味悪そうな表情を浮かべて怯む。
 ああそうか、“ここにいるもの”が見えないのだ。見えていればこんな悶着をしなくても一目散に帰ってくれただろう。
 彼らの足元から伸びる影に、無数の妖怪が乗っかっているのだから。






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