猛獣たちの夏
- Episode 2 -


二、


 そもそもなんで吐かなきゃいけないのか、肝心な事を聞き忘れていた。
 問うと、エルは手拭いで俺の口の周りを乱暴に拭ってくれながら「ラリッてヤク中で死ぬ」と簡素に説明した。風邪を治す薬なのに飲んだら気が触れて死ぬとは不思議だ。
 うちの家族は誰も風邪を引かないし病気もしない。唯一自分だけが小さな怪我をしたりするが、切り傷や擦り傷は薬草を塗って終わり。生まれてこの方、飲む薬というものを知らない。

「朝昼晩の三回、食後に一包ずつ。そんなことも知らないのかよ」
「食後は三回ゲップします」
「赤ん坊ですか」

 うつ伏せのまま枕元のお盆を引き寄せて梅粥を食べようとしたが、まったく食欲が湧いてこない自分に驚いた。腹が空っぽになればいくらでも入るはず。梅は嫌いと言ったけれども、せっかく作ってくれたのだから食べなきゃもったいない。
 のに、なかなか匙を口に運ぶまでに至らず申し訳なく思った。

「……あのさ、お粥食べんのあとでいい?」

 もう一眠りすればきっと腹の虫がぐうぐう鳴り出すからと、匙を置いてエルの顔をちらりと見上げる。エルは片眉を吊り上げてヘンな表情をしていた。

「マジで?」
「って、何が?」
「お前がへたばってるの初めて見た」

 まあね。タフなのが自慢だっただけに自分が一番びっくりしている。
 土産の薬は全部飲んで全部吐かされたから効果は期待できないし、明日また持ってきてくれるとは思えない。そこまでエルは暇じゃないのだ。だんだん心細くなってきた。
 玲は何時に帰ってくるのか、もしかしたらお泊りか。
 エルは白衣を拾って肩に引っ掛け、お盆とゲロ入りの桶を手に立ち上がった。眠るまでそばにいてくれと引き止めかけたが、思いとどまって開いた口を閉じる。薬を無駄にした自分が悪いのであって頼めた義理じゃない。持ち上げた頭を枕に戻した。

「エル、来てくれてありがとな。薬ほんとにごめん」

 足で障子を開けたエルが振り返る。呆れたって顔だ。そういう目で見られると自分の無知を思い知らされる。謝るぐらいなら最初からするなと。はいはい、分かってますとも。
 エルは何も言わずにピシャリと障子を閉め、台所へと足音を消した。

(……やっぱ寂しい)

 枕を抱え、頭痛が治まるのが先か睡魔が訪れるのが先かの二択を前に溜息を吐く。風邪がこんなにしんどいものなら、喘息や労咳なんてもっとしんどいのだろう。日々病人を相手にしているエルを尊敬した。でもエルに言わせれば、意思に関わらず家業を継ぐ事が当たり前の俺みたいな立場をある意味尊敬すると言うだろう。
 家を継ぐ事は嫌じゃない。物心つく前から毎日見て慣れ親しんできた華道は、いわば労せずして身についた才能。それを捨てて他の何かを選ぼうと思うほど贅沢でもなければ、捨てても惜しくないと思えるほどの何かを見つけたわけでもない。
 親父についても然り。跡を継げと言われた事は一度もなかった。
 教えられた事はただひとつ、「道を歩いて理を学び、分相応を知れ」。
 それだけだ。



「───で、これが分相応ってやつですか?」
「薬がダメなら自然療法だ。台所で考えた」

 とっくに帰ったと思っていたエルがそこにいた。
 そこに、というか、俺の上に。

「寒いんだけど……」

 エルは掛布団を剥いで俺の背中へ馬乗りになり、寒いと言っているのに寝間着を脱がせようとする。汗もかいてないのに着替えは早すぎだ。というか親切に着替えさせてくれる顔じゃない。ヤる気に満ちあふれた笑顔だ。

「汗かきゃラクになるぜ」
「そこに辿り着くまでが地獄だよ」
「町内マラソンがいいか」
「もっと地獄」

 エルのいうマラソンとは首に縄をつけて引きずり回すことだ。市中引き回しのランニングだ。汗を掻くどころか多量出血で死ぬ。

「な。だから布団の上でラクになれる裏技を今から俺が」
「病人を強姦して治す医者がどこにいるわけ!」
「ここにいる。勘違いするな、強姦じゃなくて裏技だ」
「裏技はもうい……っ……!」

 ブスリと串刺し。俺、臨終。
 知ってはいるがエルは一にも二にも突っ込むのが先で、牙を立てて獲物の抵抗力を奪ってから食う肉食獣そのものだ。即物的にもほどがある。寂しいなどと思った俺がバカだった。

「弱ってて余裕がない凌なんて貴重だしな」
「本音はそこか……」

 エルは人が苦しんでいる姿を見たいが為に医者の道を選んだに違いない。
 揺さぶられるたびに脂汗と呻き声が布団に落ちる。痛いんだか気持ちいいんだか分からない。熱のせいで過剰に敏感になっている身体に反して、頭はどんどん鈍く重さを増していった。漬物石が隕石に変わったようだ。
 痛いとかやめろとか口走ったら最後、エルのサド心に火をつけるのは必然。
 おとなしくしていればつまらなくなって、きっとすぐ───

「凌、もっと喘げよ。つまらねえ」
「痛い痛い!ハゲる!」

 すぐやめるどころかすぐキレた。髪を掴んで仰け反らされ、一瞬気道が塞がる。意識が朦朧としてきた。エルがイク前に俺が逝くかもしれない。
 四つん這いで犯されたまま死んでも『腹上死』になるのだろうか。
 あれ、腹上死はヤッている方が死んだ場合か。ヤられている方が死んだら死因は何になるんだろう。激しく突っ込まれるから激突死? 内臓を圧迫されるから圧死? 呼吸困難になるから窒息死? 欲漬けにされるから溺死?
 考えれば考えるほど頭も身体も変になっていく。変になるから変死とか?

「し、心臓が、痛い……ドンドンて、鳴って」
「興奮して心拍数が上がってるだけだ、問題ない」
「エルの頭が大問題ぃいいい……ッ」

 もうダメだ。腕の力が抜けて布団に上体を倒す。腰が上がってさぞ出し入れしやすい体勢だろう。そろそろ意識を手放してラクになりたい。

 揺れる視界にぼんやりと映っている障子がスッと開いた。
 あれが天国への扉───

「遅くなりましたわ。具合はど」

 ───あと十分早く帰ってきてほしかった。

「邪魔してるぞ。ていうか邪魔だからさっさと消えろ」

 エルは裏技を披露しながらそんな挨拶をする。障子を開けたまま挙動を止めた玲は、無礼者と罵るでもなく俺を見つめてきた。というよりガン見。
 こんなにも瀕死の状態なのだ、何とかしてくれと目で訴えてみる。
 だが、ここに神はいなかった。

「良い表情ですわね、凌。いつかわたくしが病床の兄上様を介抱して差し上げる日にはそのような潤んだ瞳で懇願して頂けるのかと思うと、今から心が震えてなりませんわ」

 恍惚として兄貴との妄想世界に飛んだ玲の頭も大概イカレている。
 前門の虎と文字通り肛門の狼に挟まれ、俺はなす術もなく白目を剥いて昇天した。






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