猛獣たちの夏 - Episode 2 -
一、
斗上 凌、十九歳。
この年になって初めて風邪というやつをひいた。
「夜中に川遊びなんてするからですよ」
「だって月が綺麗でさ、満月の夜は魚が……おぇー気持ち悪い」
喋るとこめかみの辺りがキンキンする。寝返りを打つたびに頭の中の漬物石がゴロッと傾くような感じだ。朝から身体は熱いし鼻の奥は痛いし、聞けばそのうち喉まで痛くなるという。たまにひどい咳をしながら歩いている老人を見かけるが、あんな感じだろうか。
喉から金玉が飛び出るような咳……いやだ。あんな痛そうなのはいやだ。
おふくろは絞った手拭いを広げて丁寧に折り畳み、俺の額に乗せてくれた。ひんやりしてて気持ちいいのに、すぐ熱を吸い取ってホカホカになってしまう。
「頭から水かぶっちゃいたいよ」
水の張った桶に顔を突っ込もうとすると、落ちた手拭いを拾ったおふくろがそれで俺の顔面を覆ってくる。息ができない。拷問だ。
渋々仰向けの姿勢に戻り、手だけでも冷やそうと桶の中の水を弄った。
「これから二人とも出掛けちゃうんだよね」
「お父さんのお仕事ですからね」
東北の偉い人と流派の懇談をするのだという。斗上は関東一円を擁する華道の宗家、出張はよくあるし自分もたまに親父と一緒に行く。でもおふくろが同伴するのは珍しい。というか初めてだ。
なんでもその偉い人というのが昔おふくろに求婚した男だそうで、結婚したあともしつこく手紙を寄越したり高価なものを送りつけてきたりしたらしい。
こりゃ懇談どころか修羅場じゃないかと、親父の心境を察しておかしくなった。
「親父に伝えといて。あんま遊びが過ぎると跡継ぎの俺が迷惑だよって」
「遊びが過ぎるのは貴方でしょう、凌」
ぺしりと頭を叩かれる。頭が痛いのにひどい親だ。
「明後日の夜には戻りますから、三日三晩おとなしく寝ていなさいな」
「はーい。ずんだ餅のお土産よろしく」
支度を終えた親父に呼ばれ、おふくろは俺の頭をひと撫でして立ち上がる。
薄紫の藤の花───結婚した時に親父が見立ててくれたというお気に入りの着物を着たおふくろは、いつになく美人でいい女に見えた。
(親父も親父ならおふくろもおふくろ、か)
非の打ち所がない鴛鴦夫婦を前に、東北男がどんな顔をするか見られないのが残念だ。
二人が出掛けてしばらく、記憶がない。気付いたら夜になっていた。
障子の外は真っ暗。家の中も真っ暗。もともと薄暗い家の中だが、人の気配がしないのはやっぱり寂しい。人でないものの気配ならあちこちに感じるのだが。
簪だの帯留めだのを作っては瑠璃屋の棚を借りて売っている玲も、昼に出かけたきり帰っていない様子。さては彼氏と一緒なのだろう。最近、玲に男ができた。あの玲とまともに付き合える奇特な男がこの世にいたのかとびっくりしたが、紹介されて納得した。
普通の男じゃなかったのだ。
というか二人とも微妙に普通じゃないところがお似合い。
「って、どうでもいいけど熱いー。いや寒いのかな、熱いけど寒いっぽいな」
喋っても辛いが黙っているとどんどん酷くなりそうな気がする。
しまいには頭が破裂して死んじゃうんじゃないかと思えてくる。
誰にも看取られずひとり布団の上で死ぬなんて哀しすぎる。
「俺死んじゃうよー寂しいよー。寂しいと死んじゃうよー」
「うるせえ病人。風邪ぐらいで大袈裟なんだよ」
障子が乱暴に開き、枕元の蝋燭に火が灯った。明かりに浮かんだ人の顔を見上げると、濃い陰影に凶悪な目を光らせた悪魔が立っている。
「あれ、悪魔呼んじゃった?」
「風邪だっつーから仕事帰りにわざわざ来てやったんだ。少し黙れアホ」
エルは白衣を脱いでその辺に放り、桶と手拭いを持って部屋を出て行く。
誰から聞いたのか知らないが、白衣のポケットから白い袋が飛び出ていたので勝手に中を見てみると粉が入っていた。袋の外には『処方薬』。風邪薬を持ってきてくれたのだ。
「やっさしー。持つべきものは医者の友」
これを飲めば治る。水がなかったので苦労したが、何とか唾と一緒に飲み下した。
「台所と米、勝手に借りたぞ」
なかなか戻ってこないと思ったらお粥を作ってくれていたらしい。エルは両手に盆と桶を抱え、足で障子を閉める。途端に酸っぱい匂いがした。
「梅粥? えー俺キライ」
「ケツから流し込んでやろうか。そしたら味なんて分からねえよ」
本当にやりかねない。エルが一人前の医者になったら患者は違う病で死ぬ。
もそもそと布団から上体を起こすと、頭の中の漬物石が眼球を押し潰すようだった。
「なんかさっきより頭いてー……この薬、ほんとに効くの?」
「この薬? って、お前これ」
エルは白衣のそばに落ちている薬包紙を拾い、まとめて逆さに振った。
「全部飲んじまったのか?」
「うん。だって薬飲めば治るじゃん?」
「大量に飲めばすぐ治るってもんじゃねえ。今すぐ吐け」
いきなり胸倉を掴んで揺すられ、布団に頭を押し付けられる。気持ち悪さが五割増。
「俺ゲロったことないから吐き方なんて知ら」
「よーし分かった。吐かせてやるからクチ開けろ」
「何、勃ってんの? 今マジで気持ち悪いから勘弁し……ッ」
喋っている途中で口の中に指を突っ込まれた。二本の指が喉奥まで捻じ込まれる。最低最悪の医者だ。ここで吐いたら薬どころか魂まで流れ出てって俺は干からびた屍になる。
何が何でも吐くもんかと、エルの指に噛み付いた。
「どこの狂犬だてめえ、人が親切に吐かせてやろうってのに」
「がふー!」
しかしそこはさすが医者というべきか、患者を意のままに操るのはお手のもので。
エルは俺の鼻をつまんで呼吸を封じ、いともあっさり口を開かせた。何か悔しい。
「もっとラクに吐ける方法にしてよ。痛いのやだ」
「しょうがねえな。じゃ四つん這いになって、顔の真下に桶置いて」
言いながら布団に這い蹲らせて俺の顔の下に桶を置く。下を向くだけで世界が暗転。これならあと一押しで吐けそうな気がした。
「ほんでどーするの? ヒッヒッフーってやればいいの?」
「口から何を産むつもりだ。そのままじっとしてろ」
吐き気が訪れるまでこの格好でいろと……
「せーの」
「───ゲッフ!!!」
腹のド真ん中に強烈な一撃。一押しどころじゃない。
蹴り上げられたのだと分かった時には桶を抱きしめてゲーゲー吐いていた。
何が痛いって、エルの優しさが痛すぎる。どんな手を使ってでも、いやこの場合は足を使ったわけだが、吐かせてくれようとするその優しさが激しく痛い。エルが一人前の医者になったら患者は内臓破裂で死ぬ。
とはいえちゃんとツボを心得て蹴ってくれたようで、ひとしきり吐いたら腹の痛みは消えた。
荒療治とはこういう事を言うのだろう。
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